武将と琵琶
天徳了伯が琵琶を聴いて潛然(さめざめ)と泣いたのはあまりに有名な話だ。
上杉謙信も琵琶を聴いて泣いた。彼の聴いたのは源三位頼政であったが、聴後に彼は御先祖八幡太郎義家は、宮中の怪を退治するのに僅かに弦をを鳴らしただけで目的を達したが、それより僅々三代目の頼政に至っては、畏れ多くも宮中を血を以て汚し奉り、その上怪物を刄を以て刺した、これは武の衰えし所以である。それより遙かに代を重ねて現今の武道はまったく地に落ちたと再び涙に咽んだそうだ。昔の武人は心で聴いたのだ。
これらは古い古い話だが、手近な明治時代の武人では、東郷元帥、上村大将、日高大将、鮫島大将、比志島中将など、みな若い時は薩摩琵琶を稽古したそうだ。現に私は上村将軍の琵琶を聴いて驚いた一人である。現在は高島将軍もなかなか上手である。その他数え来ればずいぶん沢山いる。川村元帥も琵琶通であった。そのうちでも忘れることの出来ないのは伊東元帥である。
元帥は、かの日清役の威海衛の戦に敵の海軍を完全に滅ぼして雷名を天下に轟かせたが、その時敵将丁汝昌に対して取った態度*、敵の将卒に示した大慈悲の発露は真に日本精神の真骨頭を教えたもので、世界各国の賞賛の的となっている。
そのことについて私はある日元帥に「ああした情け深い行為をするような教育はどこで、何によって得られたか?」と率直にお尋ねしたら、元帥の答えるには「別にやかましい教育は受けんよ、唯我々は子供の時分から薩摩琵琶を聴いて、大義名分も敵を愛する雅量も養われてきたような気がする」といわれた。
また元帥は、琵琶歌小敦盛を、私の師匠木上武次郎氏に書かせ、それを小笠原長生閣下に英訳させて、外国の艦隊などが日本へ来た時、乗組員に「日本の武士道はこれだ」といって分布された事を記憶している。
*編者注) 1985年(明治28年)、当時連合艦隊司令長官だった伊東元帥は日清戦争、威海衛の戦いにて清国の艦隊に勝利した際、鹵獲艦船の中から商船[康済号]のみ外し、服毒死した敵将丁汝昌を最大限の礼を以てそれを弔い、その亡骸とともに清の将兵1000名を助命解放、出港させた。この事は世界から世に類を見ない厚遇であると称賛された。
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博愛之を仁という(韓退之)
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昭憲皇太后御歌
日の本のうちにあまりていつくしみ
とつくにまでも及ぶ御代かな