撥(バチ)をあてる場所
ご覧の通り、琵琶の腹板すなわち表面には上部に一本、下部に一本、合計二本の筋が入っている。この筋と筋の間を「撥面」といって、人によるとここへ種々な蒔絵などをして飾る。これはまことによいもので昔から多くの人がここに装飾を用いたものだが、段々そうした風雅なものはなくなってきた。平家琵琶などは、大抵極彩色の絵を描いてある。
薩摩琵琶では、この撥面なるものは名ばかりで、撥は撥面以外のところで使う。この点は他の楽器とまったく違っている。
第一半月の割れたのなどは、礼儀の上からしてもはなはだ失礼である。あたかも礼儀作法のやかましい席上へ、破れたり、綻び(ほころび)たりした、又は垢だらけの衣服をまとって出るのと同じであると思う。仮に失礼でないにしても、だらしがないとか、不体裁であるとかいうことは否めないと思う。
私はまだ学生時代から今日まで、およそ二十年のあまり琵琶の製作を続けている。それも不純なる労働を安売りする底の作り方でなく、真面目に研究しながら芸術的良心に基づいて作り続けてきたので製作に関する事ならば知り尽くしている。それで尚更撥のあて場所についてはやかましくいうのである。
最適な薩摩琵琶の弦高四分五厘とその根拠
薩摩琵琶の弦張の高さ(腹板の上部の筋の際と二、三の弦の辺との距離)は古来四分五厘(※13.5mm)と定まっている。そして、その筋の入っている腹板の裏に梁が入っている。つまり胴に橋が架かっている訳である。そこで腹板を打つ撥も、この筋の少し上で打つと撥音も堅くなく柔らかくなく、丁度頃合いの音になるし及び弦の振動も良く、また覆手と柱との距離もはなはだ具合が良いのである。
古来弦張りの高さを四分五厘と定めたのは、四分五厘以上の弦張りの琵琶は音が切れる、すなわち余韻が足りない。それは諸君がようく注意していろいろ比較して聞き分ければすぐに分かることである。完全な撥使いをする人が弾けば必ず音が足りない。音はあっても色がない。けれども撥使いの弱い人が弾けばその点はなんでもない。したがって本物の撥使いではない人にはなんのかゆみも感じないだろうが、そのかわり撥が弱ければ充分な音が出ない。第一芸に生気がない。だからこの種の芸は標準にならない。なぜならば薩摩琵琶としては代表的の芸ではないから、しからば四分五厘以上の弦張りの高さの琵琶は完全に琵琶を使えばなぜに音色が切れるかというと、私の実検では四分五厘以上では弦に対して撥の力が強すぎる為である。
では四分五厘以下では如何だろうか、これでは撥音ばかりが強くて、弦に振動の力が足りないことを発見した。そこで四分五厘なる定法は古人が実検から得たる尊い定法である。かの何も出来ないのにいたずらに理屈ばかりひねっているいわゆるインテリの捏ちあげた想像や、空想やおざなりとは違うのである。
総論
以上から考えても、半月の辺で撥を使うことは間違いであることを推断できると思う。なぜならば、半月の辺では弦張りの高さは六分にも七分にもなっている。五厘違っても音に関するのに一分五厘も二分五厘も違っては大変なことになる。その上、柱の方へ近いために音に潤いも伸びもなく、カサカサした実に神経を害する音、及び弾音の悪いものができる。のみならず、かかる撥使いをすると姿勢も悪くなる。猫背の姿勢は多くこの種の弾き方が生む。その結果、胃の悪い人、神経衰弱の人が多い。これはもちろん音から来る神経の疲れも原因の一つであるし、消化神経と脳神経との密接な関係もあるが、いずれにしてもこうした弾き方は、芸の上からしても、健康方面から考えても良くない。
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健康なる身体に健康なる精神宿る
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健康なる精神は健康なる身体を作る