撥使い
大概の人の様子を見ていると、極初歩のうちは左右両手の動きが自由になるように苦心しているが、少しできかけると右手ーすなわち撥を持つ方が一足先へ自由に動くようになるようである。
ところが、右手がやや自由に動くようになるなり始めるとその頃は耳の方もだいぶ肥えてくる。つまり聴覚が発達してきて音階に注意が深くなってくる。そこで音階の製造元たる左手の指の動きに努力する。そしてそれなりに進んで右手の方のバチ使いには割合に不注意になる。そこで悪く貧弱な、重箱の隅をつつくような音は出ても綺麗で、味のある、強い、それでどことなく角の取れた、気の利いた音は出ないで困ることになる。
船を進めるのに推進器が如何に良くっても舵が悪くては目的地に行けないし、舵が良くっても推進器が悪ければやはり目的地には行かれない。また尺八にしても、息と指が揃わなければ音は出ない。これと同じく琵琶も左右両方揃わなければ甚だ不都合である。話の順序としてまず撥使いから述べよう。
第一に、中指の中の関節のところから先を撥の首に巻きつける。
第二に、名無し指(紅差し指※薬指)を同じ方法にて中指に添える。
第三に、示指(人差し指)を更に添える、しかしこの指は中の関節でなく先の方の関節から先を撥の首に巻きつける。この指(示指)をまっすぐに伸ばしている人を往々見受けるが、この持ち方は撥に力が入らないのと、崩れを弾く際には軽妙にいかない。
第四に、小指は屈めて先の方の関節が撥の頭の平面に当たるように立てる、これを中の関節が当たるようにして使う人もあるが、これでは小指の力が不足して撥が利かないし、それから撥の頭が掌(手のひら)に着くから具合がよくない。しかし素人のうちはこの持ち方をしたがるもんだからご注意を乞う。
第五に、母指(親指)を伸ばしてその腹を撥の横に添える。それから掌と撥の頭との間に卵一個ほど入る空間を作る。これで撥の持ち方はできた訳だが、尚念のために図を見てもらえばよく分かると思う。
*編者注)これは一般的な薩摩琵琶の撥の持ち方で、それは各流派によっても違います。
撥の使い方次に撥の使い方である。
琵琶を弾くのには、右手の手首の柔軟さは必要条件の一つである。手首が硬ばっていては弾けるものではない。それではその方法は?というと別に柔軟法と名付けるほどの事もない。ただ練習一つである。軽業師の如く酢を飲む必要もなければ、運動を避けたり労働を止したりする不心得なことををする必要もない。
弾く時は必ず手首を打ちへ曲げて弾くのである。この形式を取らないと撥が弦に当たる時にその角度がはなはだしい無理ができる。
手首を曲げるのは琵琶ばかりではなく三味線を弾くのでも曲げる。三味線の方では手首を曲げる習慣をつけるために夜間寝るときに親指と腕つ首(手首)とを結びつけてる人すらある。
肱(ひじ)
三味線の方ではひじを楽器の胴へピタリと付けて弾くから作り方さえ良ければ、手首を曲げて柔軟に動かすことが出来ればそれで充分であるが、琵琶は形も大きくかつ立てて弾くために楽器の胴へひじを付けて弾くことははなはだ具合が悪い。まれにはひじを胴に付けて弾く人もあるが、撥と弦の角度が大変悪いから音が十分に出ていない。
ではひじはどうするかというと、胴へ付けるとか付けないとかそんな不自由な考えは止すがよい。薩摩琵琶は肩を大きな円の中心とし、手首をば小さな円の中心として弾くものである。そのためにひじの置き場所がはなはだ広い。ひじの置き場所が広いだけそれだけ撥使いも窮屈でない訳である。そして自由に大胆に弾くのである。しかしくれぐれも自由と放縦(※1ほうじゅう)とを間違えないようにしてもらいたい。自由とはなんら碍(さまたげ)なく極めて自然に行って、しかも道をはずれないのである。道を外れたのを放縦というのだが、勝手なことをして”これが僕の自由だ”などという人もあるが噴飯の至りである。
※1)放縦(ほうじゅう) 規律なくきまま勝手にすること
(前から見た)撥の角度
次に正面から見て円の如く撥の椽(縁)が弦と平行しないように弦をあてる事が肝要である。縁が弦と平行すると弦の振動が充分でないから鳴らない。鳴っても完全な鳴り方がしない。この理屈は常識のある人には誰もが分かることだが、いざ弾いてみると大概は弦と撥とが平行している。初歩の人、少しできる人、とにかくまた一人前の腕にならない人は大概この平行の部類に入る。
「この琵琶は他の弦の割合に四の弦が鳴らない」という言葉はよく聞くが、そんなことを言われた琵琶を私が弾いてみると、中にはその通りのものもあるが、しかし大部分はこの批評は当たっていない。それはその弾法が例の平行の撥使いなるが為に四の弦が鳴らないのである、そのわけは一の弦を打つときは弦が手元にあるので、自然と手首を曲げて打つから撥の裾が弦と直角に近くなるので縁も自然と弦と平行しないから充分に弦は振動する。けれども四の弦の方へ寄るほど弦が手元から遠くなるので(本来の撥使いの方で弾く人は別として)充分に教えを受けない人は腕を伸ばさずに手首だけを伸ばして弾くから、勢い縁が弦と平行するようになるために四の弦だけが鳴らないことになる。
前から見ての撥の角度はこれくらいにして、さて次に撥の腹板に対しての角度はどれほどのものかというと、左図(前章の図解)に示すように丁度ぼうしがピタリと腹板に着くようにすれば具合の良い立て方になる。
立ちすぎると楽器の面にあばたのような傷がつく。それだけなら我慢もできるが弦の音と腹板に当たる撥音の悪いのは我慢できない。
撥を立てて弾くとなると、どうしても弦を手元から前の方へ刎ねなければならない。それが為に弦の振動が横になる。それだから音が良くない。
覆手はもっとも大切なもの
撥を横に寝かしすぎると撥音はもちろん悪いことは前章にも述べたが、その他に覆手を撥の頭で打って痛める恐れがある。覆手ははなはだ大切なもので、もし痛めた場合は形においては元通りになっても音は再び元通りにはならない。いかなる名人の手にかかっても決して元の通りの音にはならない。うまくいって元に近くなる程度のものである。
撥を寝かすな
そして撥を寝かしすぎると裾を使うようになるから裾に変なキズが付く。裾に傷が付けば音は悪くなる。この話は姿勢の所で述べたはずだ。撥に傷をつけるのは撃剣の未熟な時代に竹刀をささら(※2)のようにするのと同じく、いまだ素人の域を脱しない時の現れである。
※2)簓(ささら) 細かく切った竹を束ねたもの、鍋、釜の汚れを落とす道具
打つと抄う(すくう)
さて、撥で弦を鳴らすのは、打つのと抄う(すくう)のとの二種である。これが根幹をなしているのだ。そしてそれは団扇を使う如くにするのだが、未熟のうちは打つのでなく、上部から下部へこするようにする。それから撫でるようにする。抄うのもはなはだ弱い。これをば体裁がよいつもりでわざわざ得意でやる人もあるが滑稽なくらいに間違った考えである。
まとめ
撥使いは強いのを上乗とする、弱いのは下等である。更にこするに至っては下々の下である。だから打つときはうんと強く(といっても自然の法則はあるが)、抄う時もうんと強くするべきである。老人の話に良く出るが、打つときは腹板を打ち抜く程に打て、抄うときは鉢の裏に鏡をつけてあるとして、その鏡に我が顔が映るほどに勢いよく大きく抄えというが、それほどに考えて丁度良いのである。
昔は抄う撥の弱いのを町人撥と称して、一種の侮辱すら受けたものだ。、これは当時の気風からの事でもあるし、またその頃の階級観念を利用しての警策とも受け取れるが、ともかくそんなことを老人から聴かされたものだ。それは抄う撥が強ければ、その反動で打つのも自然強くなる。そこで抄う撥を強くやらせるための方便として言ったことと思う。
町人だの士族だのと言うことは私たちはくだらない事と思うが、これを考えようによっては知と無知とに該当するとも思える。
実際抄い撥の弱い人のを聴くと、弦をそっと撫でているくらいにしか聞こえない。遠くの方にいると音がしていない。ただ一の弦ばかりバタンバタンと云っているにすぎない。これらの人たちの出す音はみな生気のない、軽薄な、そして亡国的な音のみである。この撥使いの人の歌もまた軽薄な、亡国の民が愚痴をこぼしているようなのばかりだ。
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千両箱の中に一厘欠けていればもう千両箱ではない。