弾法を完全に覚える近道
まず、弾法は「手かず」、「音階」、「間」、「音の強弱大小」と、これらのものが具合よく配合されなければならない。しかし最初から全部のものを覚え込める人はめったにない。
私は今日まで気をつけているのに、たいていの人は音階のみ注意し、少し進んでくると余韻に注意するようである。その結果、その流儀としては似て非なるものができる。これは音階や余韻にのみ注意をして「間」というものに注意を怠るからである。幸いにして途中で気の付く人は格別のこと、そうでない人は音階が少しできると天狗になって売名の方へ走り出す。そして宣伝の名手や名人に成り下がる。これが普通であるとしたら芸をやる者の醜い反面とも云い得るがとにかく感心したことではない。
「間」が大切
私は何よりも第一に「間」を充分に覚え込めと主張するものである。「間」とは、音と音との間隔である。「間」を充分に会得して、その「間」の間へ音を当てはめてゆくのが一番早く、かつ確かなる覚え方であるのは私自身の経験である。
申すまでもなく、教えを受けているうちは先生の芸と寸分違わないようにできるのが完全である。その完全を期するのには「間」を確乎と覚え込む以外に近道はない。これは、私自身もこの方法をとったし、また一般の人達に今日まで教授してきた経験から得たものである。
それから私の子供(小学生)がハーモニカをブカブカやる。私はそれをデッと聴いているのに、音階などとんと問題にしてはいない。ただ「間」ばかりに没頭している。音階はてんで何が何だかはなはだ要領を得ない。しかし少し経つとおいおい音階がハッキリしてくる。それからたまにベースを入れてやるようになるうちに段々完全になってくる。これは自分の子供のみがそうしたやり方をするのかと思ったら、よその子供もやはり同じやり方である。
もちろん子供のことだから覚え方などを考えてやるのではなく、極めて不用意で、まったく自然にやるのが以上の覚え方である。
私は考えるのに、子供は物覚えが良いというのは「間」から覚えるためであると思う。
それから、原始的な頭は子供にある、したがって無邪気である。そして欲望は人間の通有性(※1)ある。けれども子供は子供なりに無邪気な欲望がある。これが子供から大人になるにつれて智が発達してくると欲望もまた発達してくるが、概して無邪気でなくなる。それが年を増すにつれて欲望が深くなり、広くなり、大に焦りだす。焦った結果が一足飛び(いっそくとび)に欲望を満たしたがる。そこで順序を無視して結果へ走る、ということが一番普通である。
けれども一足飛びに結果へ走るということは出来ない事と思う。もしできれば奇跡的である。大欲は無欲に似たりと下世話にいうが、これらのことを指したのではあるまいか。
とにかく私の実検では「間」をよく覚える人はみな上達が早いが、「間」をおろそかにして、音階や余韻に重きを置いた人は大部分だめであった。
※1)通有性(つうゆうせい) 同類のものに共通して備わっている性質
歌に合わない弾法
一つの手かずを作ってそれに歌を合うように度々推考して完全なものにする。そして発表するまでにはかなりの骨折りである。
ところがまだ修行中のものが、教えを受けつつある間に「間」をお留守にして音階や余韻に一生懸命になって出来上がったものを歌に合わせてみると、大概は歌に合わない。立派な人が創作したものでも大に推考を要するのに、いまだ修行中で、あるいは完全な域に達していない人が勝手にやったものだから歌殺し弾法になるのは当然である。
かつて故兒玉天南翁が「吉村さん、どんな手かずでも、調子を変えると全く違って聞こえますね、歌に合わんものは皆調子が違っていますね」と言った事があった。私は調子は一定している、それを変えれば違ったものになるのは決まっているのに変なことを言う…… と思ったが、ある時ふと気が付いたのは鹿児島では「間」のことを「調子」と言い「調子」のことを「オダメ」と言う。これは方言である。兒玉さんの言葉は、簡単であるが要点は分かっている。
まとめ
何事を稽古するのにも、統一的にものを掴むことが一番肝要と思う。つまり大局を大掴みにして、それから段々に細い所へと仕上げてゆくのが一番間違いのないやり方と思う。琵琶の弾法でもこの方法が一番良い。それには大局すなわち「間」を覚えて、それから音階、韻音、さらに色という風に仕上げてゆくのである。これはちょっと迂遠(※2)なように思う人もあるだろうが、決して迂遠ではなく一番早い、そして骨が折れない確かな道であることを断言する。
※2)迂遠(うえん) 道が曲がりくねってなかなか目的に届かないこと
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見ることを欲せざるより盲なるは無く、聴くことを欲せざるより聲なるはなし (英諺)
ゆっくりと早く爲せ (同)