[琵琶読本] 弾法の用途

弾法の用途
 弾法は節によって用いるものか、文句によって用いるものか、またはなにか他に用途があるのか、ということを諸君と共に考えたい

歌の節の種類
 さて薩摩琵琶には大別して「謡い出し」、「大干」、「切り」、「中干」、「吟変わり」、「崩れ」、「詩吟」、「和歌」等の節がある。以上の節を小別してこれに変化を加えて更に節ができており、その他「地」というのもあり「地」にはまた小さな相違点が沢山ある。これは正派たると、何流たるとを問わず共通したものである。そしてその節を歌った後へ弾法が入る。

 さてその節なるものは何の必要があって生まれたものか、というにこれは文句を活かし、かつ歌の意味や気分を表現する目的の為の手段としてできたもので、決して節のための節ではない。この点を明らかに意識すれば弾法は自ずから有意義にかつ有効に用いることが出来ると思う。
 従来のやりかた(昔は知らず、私の見聞きした範囲)は、節のために弾法を用いるという有様である。例えば大干を歌ったのだから大干の手、中干を歌ったのだから中干の手、その他等々、という具合に節に引きずられて弾いている。しかし私はこれに対して不可能を唱えたいくらいである。私は文句によって弾法を活用するべきであると強調する。したがって文句如何によっては複雑なる弾法を用いず、至極簡単なる「あしらい」で片付ける場合もあれば、普通の節に等しい場合に「崩れの弾法」のごとき複雑なるものを用いる事もある。また節でない時にでも弾法を用いることもある。

弾法を用いざる例
 ちょっとした例が、吉野落の二段(下段と称する人もある)に「その矢を抜くに暇なく」というところを大概の人は大干で歌う。その際に上段で大干の手を丁寧にやることを真面目な態度と心得ている人もあるが文句は既に「暇無く」と明示してあるのに悠長に「大干の手」を(上段下段を問わず)落ち着いて弾いているに至っては話にならない。この場合は弾法を用いずに直に次の中干に移るのが歌に対して忠実なやり方と思う。もしこれを否定する人があればその人は陋習(※1)に捉われた気の毒な人である。
 また城山の「隆盛打ち見てほくそ笑み」の大干に、下段で「チャチャン」と受ける人も往々聴くが、あれはやはり上段で「ドン」と大きく受けたほうが隆盛らしい感じが良く出ると思う。
 その他注意していると、崩れの場合でも、吟変わり場合でも、弾法に考慮を払う点が多々ある。

※1) 陋習(ろうしゅう) 悪いならわし

 かくの如く吟味してくると、弾法は文句によって長短、取捨よろしきを得たくなってくる。そして弾法は文句を活かす為に用いるのであって、節に引きずられるものではない事が分かってくる。とはいうものの全然節を無視するという極端な考えは謹まねばならない。愚者は極端に走ると故人は云ったが物笑いにならないように心がけねばならない。

 私は末技に執せず、陋習に捕らわれず、歌の意味をよく理解して、統一的な注意を払い歌中のことを聴衆の頭にグンと印象づけるようにせねば薩摩琵琶本来の目的に添わない結果を見ることになるし、また「琵琶は分からないもの」とか「琵琶はつまらないもの」という悪評すら受けるようになりはしないかと憂いるのである。

 また、弾法を歌詞の説明として弾く人もあるが私はそれを「進歩の道程」として見てはいるが、決してそれを以て能事終わりとするべきではない。弾法は歌詞の説明の為に弾くものではない。歌の感じを作る為、歌詞の感じを助けるために弾くものである。したがって写生的な弾法を以て得意になっているのは、未だその域に達していないものである。

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