くすぐったいお世辞以外、誰だって褒められて悪い気のする者はあるまい。褒められて喜ぶということは人間の持ち前の情であるが、これが弱みとも言える。そこで多くの人から沢山の拍手が起これば嬉しくなるのも否めないだろう。
演奏中の拍手
ところで近来琵琶が盛んになった為か、あるいはその他に原因があっての為か、半可通がはなはだ増えた、その半可通に限って演奏中に拍手する。例えば節をきれいに転ばすと拍手する、崩れを弾くと拍手する、はなはだしいのは弾奏者が曲の全部を謡い終わらないうちに拍手する、そのうちでも崩れの弾法で拍手するのが一番多い。考えて見給え、弾奏中に拍手する者で実際の琵琶通は一人もいない。ことごとく半可通である、低級な幼稚な者のみである。
それらの人達の拍手に浮かされて長ったらしく弾き、また程度外れの奇音を出して歌の統一を破壊したり、自分で歌詞を忘れて他から注意されたりする醜態を演ずる人が多い。それでもなお拍手を要求して迎合的弾き方を続けるのは実に見苦しい事と言わざるを得ない。
全部の弾法の中で「崩れの手」以上に素人向きのするものはない、そこが付け目で素人受けするように迎合的工夫を凝らすようになる。この点は最も注意して情を制しなければならない。どこまでも芸術的良心に恥じないよう、自分というものを歌中に置かなければならない。うっかり飛び出して迎合の懐へなど入らないように特にご注意申し上げておく次第である。
自由と放縦
元来薩摩琵琶の弾法は自由である。この歌詞にはこの弾法を必ず入れねばならないという約束はない。そこが我々の嬉しいところであり、また恐るべき点である。
自由と放縦はあたかも他人のそら似のごときもので、内容においてははなはだしい差があっても表面は似通っているので間違えやすい。 自由なるが為に短くもできる、そしてその結果が歌の気分を少しも傷つけない。更に上手な人がやれば歌の気分を一層効果的にする。
放縦は本能のままの現れであって、獣的である。そしてその結果は歌殺しや、品位の下落を構成する。長すぎたからといって薩摩琵琶の規則に反する訳ではないが、歌を殺すのが弾奏の目的でもなかろうし、迎合妥協が薩摩琵琶の目的でもない。歌を活かし、聴衆を歌中に引っ張りこんで歌と聴衆とを一枚にしてしまわなければならない。
また自分が歌中の人物になっていれば、程度を越した長ったらしい手を弾いたり、桁外れの奇音など出して聴衆(低級なる)のご機嫌を取っている暇がないと思う。俺の弾法を聴けとか、俺の弾法は上手だろうとか、もっと手を叩いてくれとか、人気があるとか、そんな間違った考えをちょっとでも持った場合はじきに奇妙な歌殺しの醜劇が演じられる。そしてその機会は崩れの手を弾く場合に一番可能性が多い。
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賢者の思想は内に歩み、愚者の思想は外に歩む (英諺)
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悪草は長ずること早し