弾法には「切り」、「中干」、その他にいろいろな手がある。それを私が以前出版した弾法図解を見て短い手だと言った人もあったし、長すぎると言った人もあったので、私は世の中はさまざまだと思った。
そして、私の弾奏の時にその弾法図解と首っ引きで対照、「怠けましたね」とか「要領を使った」とか言った人があった。はなはだしいのは某大家などわざわざ拙宅まで押しかけて「君が弾法でしっかりやってもらわないとならんのに、あんなに怠けては困る」とカンカンになってやってきた。こうしたことがあったので、私はこの機会をもって後進にちょっとお話しさせてもらう次第である。
実力養成の手段
私の弾法図解に記載してあるのは、あれは文法と同じであり、かつまた実力養成の手段である。あれをみっちりやれば立派に実力が付く、また柔道や剣道における型とも見られる。
柔道の技を戦わす場合、相手方が必ず型の通りに来てくれるとは限らないし、撃剣の場合も同じである。
会話も文法通りにやる人はなかろうと思う。
「あなたはただ今からどこへお出かけになろうとなさるところでございますか?」
「はい、私はただ今から青山へ参ろうとするところでございます」
こう言えば実に確かな言葉である、しかし会話としてはどうでも良い。
「どちらへおいでです?
「青山まで」
このほうが良いと思う、更に
「どちらへ?」
「青山まで」
これが一番ぐあいが良いと思う。よく分かって間違いがなく、時間もかからないし要点がハッキリお互いの頭へ入る。そしてその感じはその言葉を使う人の態度や言葉つきでどうにでもなる。弾奏もこれである、冗(※1)は省かねばならない。弾法は要点を掴んで歌を活かす為に役立つ。これに注意を払う事が肝要である。
ところが冗を省くことを間違えて要領を使ったり、形を成さないものを持ち出したりする人がある。例えば
「どちらへ?」という問いに対して
「参ります」
などとピントの外れた返事をするのに等しい弾法の入れ方をする人があるが、これははなはだ不都合である。
といって弾法図解の通りにきちんと弾いたところで歌に合うものでもない、いわんや弾法自慢でチャカチャカわけの分からない手を長々と弾くなどはもってのほかである。これらは歌に合わないのみならず、殊更に歌を殺すものである。そして弾奏者としての頭の働きのないことを表示し、また低級なる名誉欲の奴隷となりさがった醜を晒すものであるし、かつ作歌者に対しても失望せしめ、聴衆を馬鹿にした事になる。要は文法と会話ということを比較して考えてもらえばよく分かると思う。
※1) 冗(じょう) 不必要、無駄
○
一掬いの常識は二斗の常識に勝る (英諺)
○
下手の長談議