[最近琵琶発達史] はしがき 作 小室汀月

掲載に寄せて
本書は、大正11年[1922]8月に刊行された登文閣「現代琵琶人名録」巻末に附した寄稿文です。執筆は主任編集者の小室汀月氏、人名録そのものが約千名を網羅した圧巻たる取材内容なのですが、本書はそれに附するにふさわしき詳細な歴史的記述が書かれています。決して読みやすい文章とは言えませんが、当時の琵琶人だけが知りうる貴重な記述であり、僭越ながら仮名使いを現代語に直して読みやすくしてここに不定期連載させていただきます。先のご好評いただいております吉村岳城先生の「琵琶新聞」同様、ご愛読していただけたら幸いです。 文責 藤波白林

はしがき
 往年、米国のグラント将軍が日本に来遊した際、時の文部大臣森有礼君の紹介で薩摩琵琶の弾奏を聴き、非常に感賞して「なぜかような好楽器を一般学校の教科に加えさせて士気作興の用に供しないであろうか」と痛惜したそうである。また、有礼君も予て琵琶を以て一般学校の教科に加えたい志があったのでわざわざ鹿児島より斯道に堪能な士を二十有余人というもの呼び寄せた。そして先ずこれを一般学校の教科に加える前に琵琶そのものを世に紹介する必要があったことから、これら二十数名の人々を各々その人の技量に応じて各地方の警部や属官として派遣したそうだが、惜しいことには有礼君の枉死*によって杜絶してしまった。

 それからは故高崎五六男が故北白河宮の家令として熊本駐在の折に故名人田原翁を聘して折々朝野の人々に紹介し、または奈良原繁男が沖縄県知事であった間、故平豊彦君の厳父要之亟翁を県応の属吏として、暇ある毎にこれを弾奏せしめて辺陬の人々にまで紹介したばかりでなく、当時在京の田原翁を東京音楽学校講師に推挙したなど言わず語らずの間に有礼君の遺志を実行していたのであったが、ある一部の人々が琵琶を濫用したためその弊害に耐えぬ結果、生徒に琵琶を禁じた学校が都下にも二三あった、また地方にも少なくなかった。これは弾奏者自身が琵琶そのものの精神に暗いからであった、すなわち薩摩琵琶が薩の国境を出てさしも全盛を謳われたのであったが、その弊害に得堪えずして一時下火になったのである。しかもこれらは単に外観に留まることであってその実琵琶に対する世人の研究が真面目になってきた。そうしていわゆる薩曲を換骨奪胎した東京派の出現となり、平家琵琶と源を同じうするところの筑前琵琶の猛襲とによって斯界は空前の発展を遂げるに至ったのである。

 そうして一旦萎摩不振の状態に陥った純正なる薩摩琵琶もこの大勢に発奮して近来ようやく復活しかけたようである。そこで私は以上の推移を経として名家評伝(本文の現代琵琶人名録)を緯としていささか発達史なるものを綴ろうと思う。しかるに上田文学士著の『薩摩琵琶淵源録』(明治45)と錦心流や橘流の片々たる機関誌を除くほかは記録と称するに足るものがない。したがって読者に満足を与える底のものは書けないがなんといっても橘流と錦心流が斯界の中心勢力であるから主としてこの両流を描写してみようと思う。尚、すでに発表してしまったから致し方がないが名家評伝が一種の発達史であって改めて発達史と銘打つ必要がないのである。いわば名家評伝に対する総説を掲げれば良いのであった。してまた秩序立った発達史を編纂するには少なくとも一二年の歳月と少なからぬ資金を投じなければならない。これはいつか大成したいと願っている。要するに表題は発達史であって名家評伝に対する総説であるからあれこれ対照して読んでもらいたい、そして先ず薩の国境を出て東都に躍動した当時の光景から略述しよう。

*)時の文部大臣森有礼[1847-1889]は、薩摩琵琶を近代日本教育要の正科とするべく奔走するが、その実現前の明治22年、大日本帝国憲法発布の日に国粋主義者の刃に斃れてしまう。

第一章 はしがき おわり

「最近琵琶発達史(2)薩の国境を出で」に続く

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