[琵琶読本] 才子の才敗け

 師は親に等しく、弟子も子も同じである以上、人生の根本と同じである。そこで人生観というものがなければならない。
 私は「我々人間は種族の向上ということ ーもっと突き詰めていうとー 子孫の向上である。つまり親よりも子、子よりも孫と順々に段々偉くならねばならない。これがあるが為に生命がある、これがなければ生命もなにもない」と思っている。この事からして考えると弟子は師より優れなければならない。

種族の向上
 ところがそれほどに考えずに、師の芸の長短すら見決めず、ただ無批判である人がはなはだ多い。師といえども人間である以上全知全能ではない。したがっていかに名手とはいえそれ相当に欠点もあり、例えば師の長所であっても自分に移した場合どうしても(そこが自分の)短所になる場合もある。そこで長短を良く見極めて優れた点を取り、それを土台として更にその上へ積み上げてこそ、師より以上の人となり得ると思うが、妙なもので注意しないと反対の結果になる。

地球に引力のある限り下へは転がり易い。
誘惑物のある限りは、眼前の小利に気が移りやすい。

 これが普通一般の人情であり、また人間の弱点でもある。
 私の今日まで教えてきた経験では、私の門下には私の悪い癖をまず覚えて(初歩の人は別だが)、それを良い事にしている。私は初めのうちは「妙なことをやる」と思っていると傍らで「岳城そっくりだ」という人があったので私は驚いた。あんな癖が私にあってははなはだ良くない。しかもそれをそのまま弟子が得意になって演じるとなるとはなはだ罪深いことであると思ったので、以来ひたすら自分の癖直しに努力した。

癖なきが上乗
 ところが門人のうちに「うちの大将のは癖がないから覚え難い」という者が出てきた。その時に私は「そうなったかなァ」と喜んだがしかしそれでも私は止めず、むしろそれに力を得て一層自分の癖直しに努力し続けている。これは自分の為ばかりでなく、実に門下や外の後進の為である。

 他の先生方もご経験の事と思うが、芸の方面はもちろん、その態度などでも先生が猫背だと弟子はその猫背の真似をする、やたらに身体を動かす先生の弟子はやっぱり身体を盛んに動かして、これがこの流儀だという人すらいる。はなはだしいのになると、某先生が総入れ歯でしかもその義歯の具合が悪いために息が漏れて発音に妙な癖があったが、それをば満足な歯を持った弟子がわざわざ不明瞭至極な発音をして得意になっているのがあった。

親馬鹿チャンリン
 親の欠点ばかりを真似る子に対しては「仕方のない奴」という寂しいあきらめはあっても、決して満足ではないと思う。もし満足しているとしたら、それは「親」というものに目覚めていない下世話にいうところの親馬鹿チャンリンである。また子もその通りで「親父が酒癖が悪いんだから俺も悪いんだ、これが俺んとこの家風だ」と心得ている息子があったらとんだ大べらぼうである。

 それから、自分の師でなくとも、他に自分の好きな弾奏家のを聴いて無批判に肯定してかぶれる人、又はさにあらずして、おもしろ半分に他人の欠点を真似てかぶれる人もかなり多い。こうした人は器用な人で、それだけ注意が肝要である。人の真似の上手に出来るほどの才を、真面目な方へ使えばたいしたものだと思う。

 人の真似の上手な人は稽古も人ほどに苦労しないで上手になる。しかし妙なものでアブク銭と同じく(苦労せず)得たるものに対してはありがたみが少ないと見えて、確乎と握っていない。だから上っ面は楽々と覚えても、中の中まで覚えないから転々として締まりがなく、結局落伍者となった例が実に沢山ある。これらは才子の才負けとでもいうのか、下世話にいうところの「河童の川流れ(※1)」である。

※1)河童の川流れ(かっぱのかわながれ) 泳ぎの得意な河童でも時折流されることから、名人でも時折失敗すること

 いずれにせよ才子である以上はそれを善い方面へ自分で育てて、小手先の器用な小才子に満足せず全身全霊的の大才子になっていただきたい。また芸を磨くのはちょうど餅を焼くのに等しく、強い火で急激に焼くと外面は焦げても中は火が通っていないが、遠火で焼くと芯まで火が通る、しかしあまり遠すぎても焼けない。あの呼吸で稽古すると良いと思う、焦らず、騒がず、撓まず(※2)、屈せず、そしてかぶれず。

※2)撓まず(たおまず) 撓むとは怠けることから、ここではなまけないこと

     ○

大哲学者プラトンは疱瘻(せむし)であった、ところが弟子の中には立派な身体を持ちながらわざわざ背中に綿を入れて膨らませせむしの真似をする人がずいぶん沢山あったが、これらの人は肝心の哲学の方は出来なかった

     ○

容易に学びしものは容易に忘る

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