「自分はこれを職業にするのではない、自分で聴いて楽しめれば良いのだからそんなに深くやることもない、自分一人で楽しめる程度でたくさんだ」
こういう意見は琵琶界に限らず何の芸界においても素人間には共通した考えのように見受けるが間違っていると思う。
人間は向上する
「自分は素人で楽しみにやるんだから人に聴かせなくてもよい、自分だけ聴いて楽しめれば良いのだ」というからには聴き手は自分である。ところでその”自分”なるものはすこしも向上しないだろうか、稽古している時と同じ程度で停止しているだろうか? 否、自分というものは常に確かに向上しつつある、してみればちょっと稽古したくらいで永久に自分を楽しましめる事はできるものではない。一時的の満足を得るためならば文句はないが、永く自分が楽しむためならば、うんと深く究めておく必要がある。「素人だから深くやる必要がない」とか「人に聴かせる為に演奏しない」などという人は自分の未熟さを承知で稽古しない人に多い。
第一素人でありながら玄人より勝れた腕を持っている事は痛快じゃないか。
それから自分だけ楽しんで人はどうでもよいという事は薄情じゃないか、また「自分さえ楽しめれば」は逃避的のカモフラージュである。この種の人が琵琶会に出演しないかというと、なかなかどう致しまして盛んに出演する。出演する機会のない人はその機会を狙っている。そして聴衆から賞められると喜ぶが、けなされるとたちまち怒って「今夜の聴衆は(聴く)耳がない、それに僕は趣味でやっているんだ」という。はなはだしいのはプログラムに自分の名が小さいとか出演順が悪いとかいって怒る人もある。それが玄人の会へ出る素人の言いぐさである。してみれば「自分さえよければ」だの「人に聴かせなくても」はみな怪しくなってくる。
人間は到底独りぼっちでいられない動物なんだ。さりとて大勢で絶えずゴタゴタしてもいられない。落語家が家にいる時ムッツリしているのは一種の保養だといったが実際さもあるべしと思う。だから一人でいたり大勢でいたり出来る人が一番幸福である。この意味において、自分だけ楽しむのもよかろうが、一般の人と共に楽しむのも悪い事ではないのだ、「素人だ」なんて初めから妙な仕切りを立てないで皆々玄人の腕になり、衆と共に楽しんでもらいたい。