琵琶はどんなものが佳いかということについて故木上先生のお教えでは
一、 自分で弾いてうるさくなく
二、 音の揃った
三、 声を取らない
四、 遠音の刺す
五、 ゆったりとした
六、 余韻に力のある
以上は音における佳い条件である。それから
七、 左手はクチの柔らかい
八、 右手は弾き易い
以上の諸条件が揃っていれば佳いといわれたが、これならば誰もが文句なしに承知できる事と思う。
洋楽家による選定
私の友人に洋楽家が少しばかりいる、そのうちで琵琶に対して何の知識もない男が一人いる。ある日私はその男に琵琶を五-六面出して
「君が今琵琶を買うと仮定して、この中でどの琵琶を選ぶか?」と尋ねてみた。
すると些少の間弦を弾いていたが、しばらくして選び出したのをみると私が心の中で選定しているのと同一だったので、「なぜその琵琶を選んだか?」と「僕は琵琶の事は分からないが、とにかくこの琵琶の音が一番声に近いし、また雑音が入らないし、そして音に余裕がある」と言った。
ところで木上先生の言われた「遠音の刺す」は雑音が入っては遠音は刺さない(註、遠音が刺すとは遠くハッキリと聞こえることである)。雑音の入るものは自分で弾いてうるさい、「音に余裕がある」は、木上先生の「ゆったりとした」に一致する。
肉声に近いということは「声を取らない」である。肉声に遠いものほど声を取る(註、声を取るとは歌う時に伴奏楽器の如何により声が苦しい、つまり声の出し難いものを指していう)のである。
以上で、音の方面では我々琵琶をやる者の選定と、洋楽家の選定とは別に変わりがないということがお判りになったと思う。
クチの硬柔
さてこれから「クチの柔らかい」であるが、こればっかりは洋楽家には分からない、いやおそらく琵琶をやる者以外には分かる人はないだろう。これは我々仲間のテクニックであるがしかし、その我々仲間ですらもこのテクニックの分からない人、あるいは誤解している人が増えてきた。クチの堅い柔らかいを音の堅い柔らかいと思っている人がいる。琵琶製作者にもこの種の人が多いのでちょっと説明しよう。
薩摩琵琶は度々述べた通り弾く時には弦を締める、その時締めるのに比較的指の力が要らないものを称して「クチが柔らかい」というのである。反対に比較的力を要するのを「クチが堅い」というのである。この「クチが堅い」のになると、中には指がちぎれそうに思うくらい痛むのがある。クチの堅いものはいかに音が佳くても弾くのがとても困難であるから「佳良の品」とは言えない。
それから「右手は弾き易いもの」、これは至極もっともな話である。そして弾き難いものの多くは弦張り(弦高)が高すぎたり低すぎたり、又は腹板の上部の方の節の辺が凸として出っ張ったり、要するに出来損ないの琵琶に多い。
追加要件
以上で、木上先生の節を敷衍(※1)した訳だが、私は以上の条件の他に更に二つの条件を要求する、その一つは、
九、 自他の神経をいらいらさせない音
これは木上先生の「自分で弾いてうるさくなく」と「ゆったりした」と「声を取らない」と大部分は重なるが、少し物足りないので付け加えさせて頂く。
キャンキャンした音、ガラガラした音、キンキンした音、こうした音のする琵琶を聴いていると神経がグングン尖って来る。こんな音のする楽器を持っていてはいつまで経っても底力のある芸、落ち着きのさなかに悠然と光の光る大きな芸、気品の備わった高尚な芸はできない。
※1) 敷衍(ふえん) 意味を分かりやすく説明すること
精神統一された時の神経
それからまじめに歌える時は精神統一された時である。精神統一すると神経が平常より17倍鋭敏になると心理学者が言っているが、私は門外漢だから確実に数字で示す事はできないけれど、とにかく平常よりも神経が鋭敏になる事だけは自分で分かる。
琵琶の音は無神経である、人間は有神経である。それだけに神経が鋭敏になると琵琶の音に引きずられていく。そこで琵琶の音がキンキンしたり、ガラガラしたり、キャンキャンしたりすると非常に神経が疲れる。こうした琵琶のせいで神経衰弱になる人がとても多い、のみならずそうした音ははなはだしく金属性を帯びている為に肋膜や肺を悪くする人も多い。
楽器と体の健康との関係
前にも述べた通り、無神経でない人である限り楽器の音に釣り込まれる、これは免れないことであるが、もし釣り込まれない人であればそれは精神を統一して弾奏しない人であり、これは人間が弾奏しているとは認められない。精神を統一して真面目に弾奏すればするほど楽器の音に引きずられる。
ところで楽器が金属性の音を発すると自分の声も金属性化してゆく、本来肉声であるべきものが鉱物性の声を出す事は無理であるので、楽器がかける催眠術によって金属性の声を出すようになる、その無理が肋膜や肺を異常に疲労させ遂には病気になるのである。これらは諸君の健康のために特にご注意申し上げる次第である。尚、かかる楽器ははなはだしく声を取る。しかし初めから声を取る琵琶を用いているとそれなりになって分からないが、ひとたび声を取らない琵琶を用いて比較するとよく分かる。そしてこれらの不良な琵琶を持っていると自然と裏声を使うようになる、裏声は亡国的な声である。裏声が亡国的な声であることは識者がことごとく認めるところである。
また、音の悪い楽器を持っていると自分の声まで悪くなる。その実例として名は伏せるが某氏などは実に不出来な音の楽器を、単に「音が大きい」という理由で持っていた。音の大きいのを好むのは構わない、その人の好き々だから一向に差し支えないが大きいと同時に「佳い音のもの」でなければならないのにその琵琶は極めて悪音のものであった。その持ち主は決して悪声ではなかったし、又修練すれば立派に美声になる素質のあったのに係わらず遂にその悪音の楽器に影響されて完全なる悪声になってしまった。
もう一人は「僕の声はこんなドラ声だから琵琶の音もガラガラしたものが合っている、美しい音色では合わない」といって、これまた悪音の楽器を持っていたので私は深く注意を与えたところ、幸いにしてその人は私の苦言を受け入れてくれてその(悪音の)楽器を棄てて別に美しい音の琵琶を持って弾奏するようになったら、その後二年ほどしてから聴いたらまるで別人の如く美声家になっていた。こうした例は沢山あるけれどちょっと一二挙げてみたが諸君は注意していれば沢山発見される事だろう。
形の良い楽器
今ひとつ私の要求する条件は、
十、 形の良いもの である事。
昔から薩摩では座敷に琵琶と弓とが飾ってあると魔除けになると喜んだものである。それから楽器は単に音のみをもって佳いとはせず、音と同時に美術品であらねばならない。すなわち美術工芸品でなければならない。しかし、それでも音を傷つけるような美術的加工はやってはならない。要は楽器本来の生命である「音を犠牲にしないように工夫する」のであるけれども、今日多くの人は上のいずれかに偏っていた向きがある。いたずらにゴテゴテと象牙を用いてみたり、金銀で半月や猪の目を作ったり、蒔絵を無節制に施したり(それも音を害しない程度でなく音の勢力範囲まで侵して) 材料の質を考えずに体裁に走りすぎて、音を出すのに具合の悪い材料を用いたり、これと反対に音さえ良ければ体裁は構わないと極めて不体裁なものを作っていたのがかなり合った。これらは極端に走った事と思う。だがそうした美術的なものは高価であるから経済的に二の足を踏む人もあるだろうが、せめて形だけでも佳いものをと私は思う(形としては随分品の悪いものがある)。
琵琶の歴史から考えても、また室内に飾って魔除けとして喜ぶ点から考えても、形のよいものでないと面白くない、そして其の形は上品なものでなければならない、下品な形では琵琶の品位を落とすと思う。