[最近琵琶発達史] 第六章 錦心永田君と一水会(3)

一水会支部の始め
 一水会の支部のそもそもの始めは横浜と千葉県東金町とであって、東金町支部へは永田君はちょっとしか行かず令弟直治君が教えに行った。先だって浅野晴水君の手で東金町在住の四人が水号になったが、これはその昔直治君に教わった人々であるそうな。

 東京市内に於ける支部の始めは、浅草支部が大畑墨水君、四谷支部が石川萍水君、日本橋支部が榎本芝水君、赤坂支部が田村滔水君(のち日本橋支部)、芝支部が稲芳潤水君等である。また自分の水号を以て会名としたのは田村君の滔水会が最初で、それは大正六年規制改正の時の事であった。支部から水号を申請に来て許された最初のものは浅草支部の大畑君の申請で、飯田滴水君が昇進し横浜支部から永田君直接に故長屋朧水君が昇進した。錦心流規則を作成する上において水号者として相談に預かったのが石田萍水、榎本芝水、田村滔水、田辺枯水の四君で、規則が出来上がってから後に水号が試験制度となった。そして当時審査員というものが置かれた。その審査員に選ばれたのが石川、田村、田辺の三君であったが此の時すでに石川君は北海道に赴いていた、しかし此の審査なるものはすぐに廃止されて、その後は永田君自身試験するようになった。此の試験制度が出来てから最初に試験を受けて合格したのが水藤枝水、長島華水、中島冬水、他二-三君であったそうな、総伝のはじめは榎本芝水、田村滔水、田辺枯水の三君であって、水号を受けた順になる。

 前にも述べた如く芝水君は最初の水号者であるから総伝の中でも一番古参で、次が田村君、そのまた次が田辺君という順である。皆伝の始めは松田静水、竹村晃水の両君であって、女流皆伝の始めは死んだ柳沢玉水嬢である。錦心流宗家幹事なる役が設けられてから第一番目に幹事となったのは榎本芝水、田村滔水、田辺枯水、松田静水、秋本碧水、松本玉浦の六人で外に相談役として椎橋松亭君が加わったのである。

初期作歌者
 その他、一水会のために最も骨を折った作者は高松春月、酒井幽泉の二君で、高松君は義士(討入)その他の名作が沢山あり、酒井君には曽我物語以下の力作十余曲を算するばかりでなく、「四絃」誌上に連載しつつある「思い出の記」は錦心流の最大収穫といえよう、その後の作者としては葛生桂雨君が加わり、更に飯田胡春君(最近秋月と改号した)が尽力することになったのである。この四人の作歌者について私は少し書いておこうと思う。

 高松春月君は最初より永田君と結んで斯流、否永田君のために心血を注いだ。錦心流の発達史上逸することの出来ない作歌者である。
 酒井幽泉君もまた最初の幹事としてはたまた創立者の一人として没するべからざる一人で、前記の他に「乃木大将」の如き傑作あり、特に「四弦」のための健筆(※1)を揮うこと多年、その皆伝として新潟県下における斯道の開拓に従事することまさに十年、流水の雅号は県下に普(あまね)しである。
 葛生桂雨君は大正元年より「四弦」の前身「ひびき」の主筆たること四カ年(「ひびき」の前には「琵琶世界」と銘打って酒井君が主催していたそうである)、今の「四弦」にやはり主筆として尽瘁(※2)すること五カ年、最近に至って作歌専門となったが、山吹の里、乃木将軍、隅田川以下名篇佳作実に六十余曲に「四弦」誌上に連載した「琵琶物語」が近来「日本歌舞音楽史譚」と改題されて続けられているが私は斯界の収穫として特筆するにやぶさかでないものである。
 飯田胡春君の令兄は隠れたる琵琶の名手であった。飯田君は法科に入るべきを夙に(※3)俳句に秀で、遂に帝大の文科に投じてこれを卒(終)え、専ら著作に従事して、琵琶新聞記者としてもかなり長く、五-六年前文学士となってからは名古屋中学の先生を振り出しに現、川越中学校の先生として琵琶新聞の編集顧問を兼ねている。その作歌者として名を馳せること多年、作歌五-六十曲に達するという。就中(※4)大正五年頃より葛生君と共に新曲講習に携わり、年二-三回は神田橋畔の和強楽堂で試み、最近は南明倶楽部(※5)に於いて催している。最初の計画通り隔月にやりたいとは葛生君の語るところ、尚、琵琶新聞に続々として発表された飯田君の「琵琶評釈」は斯界に益すること甚大であった。

劇場進出
 さてまた永田君が劇場へ出演した最初は大阪の弁天座で、それは確か明治四十四年であったと思う。東京で初めて劇場で琵琶会をやったのは本郷座で、一水会が皮切りである。それは明治四十五年七月十五、十六、十七日の三日間であったそうな。

 私はこんな事を聞いている。永田君が斯界に愛想を尽かして本郷座で隠退披露大演奏会をやったところ、大変な大入りで人気は依然として永田君に集まり、隠退どころかかえって盛んになったという。それはいつの頃か分からないが、永田君の性格としてありそうな事である。また如何に純薩の人々から厭迫(※6)を受けながらもよく耐えて切り抜けて来たかを想い知らされるであろう、そしてまた琵琶会の演席としては当時和強楽堂や、神田美土代町の市場亭(今の入道館)などであり、当時の主たる会場としては和強楽堂、神田の新声館、(日本橋)蛎殻町の水天閣等であった。

 以上で松本玉浦君の「一水会物の始め」のすべてを書き尽くした。

※1)健筆(けんぴつ) 文章や詩を巧にすらすらと書くこと
※2)尽瘁(じんすい) 自分の労苦を顧みず尽くすこと
※3)夙に(つとに) 以前より、昔から
※4)就中(なかんずく) とりわけ、なかでも
※5)南明倶楽部 震災前、神田神保町1番地にあった講堂。詳細は不明
※6)厭迫(えんぱく) 無理強い

第六章 錦心永田君と一水会(3)一水会物の始め-後編- おわり

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