しかし私(筆者)はすこぶる物足りなかった。特に福岡市は筑前琵琶の発祥地として一丸父子をはじめ多くの名手がおり、その旭翁上京前に養成された人々ははなはだ少なからず、かつ現に橘流の中堅を承っている弾奏家にして旭翁上京前に指導を受けた者の多いのにもかかわらず、評論子*が更にこれに触れなかったのは遺憾である。
*編者註)評論子(ひょうろんし) 特定の人物を指さず、匿名的に広く評論をした人物群をいう
智定(旭翁)の見た夢
そして直ちに旭翁は東上に移っている。明治三十一年の春、旭翁は翻然(※1)大志を抱いて上京した。この動機についてもすこぶる古典的な一場の話がある。
日頃旭翁は御考案に成った改良琵琶を中央舞台に持ちだして、有識者の批判を仰ぎ、評価を一挙に決してみたいという希望があった。たまたまある夜の事、朝暾(※2)を洋々として登るところを拝す夢を見た。しかもそれが三日続いて同じような夢を見た。「はて妙なこともある、朝日の昇る方角は東である、予(かね)て上京したい希望にもだえているからそんな夢を見るのであろう、それにしては同じ夢を見続けるとは不思議である。あるいは俗にいう神のお告げで神人感応の神秘的吉兆であるかもしれぬ。」と自問自答して上京を決行する事となった。そして旭翁は霊夢の幸先を祝して、携える琵琶の名称を「旭」と命じた。なんという幸先の良いことであろう。
そして林為次郎君などの親近者は前途を祝福し、かつ斯行をさかんにすべく、水茶屋常盤館(※3)に送別の宴を開いたのは(明治)三十一年の確か三月初めであったそうな。旭翁はこの行がもし成らなければ死んでも帰らないという固い決心を胸底深く秘めていた事はもちろんであるが、霊夢まで見て今日の隆盛をみるに至ったのは、真に斯界の奇跡であると称しても過言ではないであろう。
さて、上京後の旭翁は如何にして斯流を普及させたか「一生を芸術のために献げた旭翁は、これをどうやって普及させるかという事に少なからず苦心した」同時に私は旭翁がいかにして斯界に覇をなさんかと考えたであろうことを思わずにはいられない。換言すれば一生を芸術のために献げた忠実なる一芸術家として見るに旭翁はあまりに覇気に富んでいた。加えて至る所に知古を求めたことは、何としても単なる芸術家として片づけるわけにはいかないのである。
※1)翻然(ほんぜん) ひるがえって、急に反対側に移るさま
※2)朝暾(ちょうとん) 朝日、朝陽
※3)常盤館(ときわかん) 当時福岡にあった有名茶店(福岡市博多区千代2丁目)、孫文など歴史的人物も訪れた
その出発点よりして、興論を代表する新聞記者である今村、南部その他の諸君より心からの後援を得ているではないか。上京後も同郷のよしみで枢密顧問官金子堅太郎子爵方に寄寓し、弁護士浜地八郎君や、頭山満翁等の多大な後援を得てここ東京で認められるに至ったと言われている。
花柳界進出
金子辰三郎君(金子堅太郎子爵の令弟で斯道の隆盛に最も尽力を致した九州の名門)からこんな事を聞いた。
「当時智定(旭翁)君の熱心というものは驚くばかりであった。なにしろ東京人の耳には初めての音楽なので、世間の批評は区々(まちまち)だった。しかしそんなことに頓着する智定君ではなかった。研究する一面にはこれが宣伝にに務めたもので、その頃僕がひいきにしていた新橋芸者にお茶良、お定、おなつというチャキチャキがいた。これら花柳界の者に筑前琵琶を紹介すべく益々智定君と一緒に遊んだものだ。そして盛んに琵琶の講釈をする『では一つ聞かせて頂戴な』と来るのを待って一曲弾いて聞かす。琵琶が済めば得意の横笛でさすがの連中を驚かせたものだ。ある日浜町に行った時、智定君を藩主のご隠居長友公に仮装させて、僕が家従(家来)という風で御微行(お忍び)のつもりであったが、だんだん興がはずんできて『ご隠居は大層琵琶や笛がお上手でいらっしゃるから一つお願いしてはどうだ。なに?琵琶を知らない?そりゃけしからん。そもそも琵琶というものは云々……』で大いに琵琶の講釈を弁じ立て『楽器がないから唄いにくいが歌の節だけをお願いしてみよう』ともったいぶっておいて智定君扮する長友公が琵琶歌をやる笛を吹くといった調子。ところが少々のお酒の加減でご隠居さんが興に乗じて妙な格好をしながら吹き立てたからたまらない。早速お竹という老妓から化けの皮を剥がされ『実は日本一の琵琶の先生だ』と白状してあとは大いに騒いだこともある。 一時吉原や新橋あたりから流行りだし、果ては福岡三界まで流行ったことのある「♬澤市ナアー、澤市疱瘡で生まれもつかない盲目にて、妻のお里がネー、妻のお里が壺阪寺に願を立て、エーお目が開いたとサ」という歌は智定君が節附けしてこの時代に唄いだした小唄であった。すると都新聞に『田舎大尽が琵琶の名人を連れ来たる』という記事が出て大いに閉口した云々」と。
しかし金子君が閉口した代わりに旭翁は一部の目的を達して心密かに快心の笑みを洩らしたであろう。いかに金子君の配慮に出たとはいえ、花柳界の連中の機嫌気褄(※4)を取ってまで斯流の普及に奔走した旭翁の苦心は並大抵ではなかったと思う。そして狷介(※5)世と相容れないいわゆる名人気質の芸術家とは大いにその選を異にしたであろう。すなわち目的を達する為には手段を選ばなかったのである
かくの如く(旭翁が)花柳界方面に琵琶趣味の普及に努める他、金子子爵や浜地八郎、頭山満翁などの在京先輩者は(筑前琵琶を)家庭方面に普及させるべく尽力した。
※4)機嫌気褄(きげんきづま) 機嫌を取ること
※5)狷介(けんかい) 自分の意思を貫き、他と和合しないこと
第八章 初代橘旭翁の苦心(2)旭翁の見た夢と花柳界進出 おわり
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