[小説 びわ師錦穣] 第三話 芸能志願

中村の父は勤め人ながら芸事好きで、講談、新内、浪曲、端唄、暇さえあれば子供たちを連れて聞きに行ったし観に行った。その影響もあって子供達も謡い事を好み、中村家はまこと賑やかな家であった。長男の清一は義務教育を終えると商業科高校に進み、野球に励む傍ら新内や清元も嗜んでいたが、ある時たまたま学校の友人と聴きに行った琵琶演奏会で錦心流の村上渓水師演ずる”捨児”に深く感動し、その場で入門を決めてきた。
同じ頃、父は冨美にも何か芸事をと、近所の理髪師の妹に常磐津を習いに通わせた。 母は女に芸事などとんでもないと冨美の習い事には反対だったが、父は意に介さず、少ない小遣いを削ってでも冨美に習い事をさせた。

当時はテレビはなく、ラジオさえもない時代、芸といえば浪曲や講談、琵琶歌が世の花。中でも当時日本画の天才永田錦心が興した”錦心流琵琶”の人気は大変なもので、彼自身のみならず、彼の輩出する門人が地方を問わず舞台を大いに沸かせていた。帝都では片腕に琵琶袋を携えて袴姿で急ぐ琵琶師の姿は道行く人々の羨望の的。「月に叢雲花に風…」、錦心が一世を風靡した名曲「石童丸」の一節を自転車で出前の蕎麦屋は口ずさんだものだ。
入門後数年で琵琶奥伝を授かった長男清一は学業を終えるといったん徴兵令により軍に入隊するも、肩の関節が外れるという癖?があり検査でそれを見せたところ軍役叶わずということで戻って来た。というわけで昼は報知新聞に勤める傍ら、中村禹水(うすい)と号して近所に琵琶指南所を開いて弟子を募った。当時は琵琶指南の看板を出すだけで志願者が次々と現れて瞬く間に門人は数十人になった。

冨美が最初の常磐津”恨葛露恋濡衣”をやっと習い終えた頃、今度は冨美にも琵琶を習わせようということになり、冨美は寺島に住む女流の村谷堂水師に出稽古してもらい手ほどきを受けた。大正8年、まだ数えで九つ、満8歳の冨美が抱えるに琵琶はあまりに大きく、座して膝に抱えると左腕を伸ばしても指は一番下の柱に届くのがやっと、しかしその堂に入った姿はなかなかに立派で、入門まもなくの初舞台には埼玉に住む母方の祖母も招いて両祖母をたいそう喜ばせた。祖母は嬉し涙で冨美の姿が見えなかったそうだ。

つづく

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