以下は水藤錦穣師が昭和初期、錦心流の機関誌「水聲」に寄稿した文です、古い文ですが今なお重要なことと思いますのでここで取り上げたいと思います。藤波白林
模倣と個性 水藤錦穣
「模倣になってはいけない」「個性を発揮せよ」とはよく言われることで、演奏家としては、もとより他人の真似ばかりでしていたのではいけないので、自分の個性を発揮せなければなりません。然しながら私は、比較的初心の方々に向っては、寧ろ「名手の模倣をすべし」と申し上げたいと思います。
模倣といえば誤解を招きやすいかもしれませんが、他人の美点を学ぶことは大いに必要であります。殊に初心の人は、自分の敬服する先輩の芸術を熱心に真似てみることも、確かに一つの修行であり、研究であろうと思います。学校の教育でも、最初は生徒が先生のやる通りの事を真似て学ぶようなものであります。
一面から申しますと、模倣ですらできない人が、直ちに個性を発揮しようとしても、なかなか難しいもので、却って変なものになってしまいます。所詮下手に固まってしまったのでは、容易に上達の見込みがありません。左様なのは個性でなくて悪癖であります。個性を出そうとして悪癖に陥っている人は、よく例があるように思われます。
演奏会で「何某さんそっくり」という評言を聞くことがよくありますそれはつまり模倣の成功した場合で殊に師と弟子の芸風が共通しているが如きは、極めて当然であります。
師弟の芸風が相似るのは当然でありますが、他の先輩の歌節を真似るような場合には、自分の音聲、節廻し等の上に共通点がなければなりません。全然芸風の異なった人の模倣は、似ても似つかぬものとなってしまいます。虎を描いて猫に類するというのは滑稽なものであります。
すべて名手といわれる方々の芸術は、もって生まれた天分の力と、一方ならぬ苦心研究の結果とによって完成されたものですから、それを模倣するにしても、相当の努力が必要であります。殊に、単なる外形上の模倣に止まらず、芸術の精神にまで深く這入って行くとすれば、それこそ立派な研究であります。
近頃では、地方に於いてもラジオによって東京の名手の放送を聴き、研究の参考に資せられる方が多いように承りますが、そうして他の美点を学ぶということは、非常に有益であると思います。
大きく考えてみますと、錦心流という流派内の人は、すべて故錦心師の模倣をしているようなものであります。そして、同じ錦心流の中にも仔細にみれば一人々々それゞに異なった個性が現れて居ります。名手になればなるほどその個性が鮮明であります。つまり、錦心流という一つの型を完全に会得した上で、それゞに自分の特徴を発揮する事が必要であります。
故錦心師なぞは、僅かにニ三ヶ月師に就かれただけで、あとは自分の個性のままに進み、遂に錦心流を創造されたのでありますが、それはひとへに天才の力で、凡人には到底出来ない事であります。故に、最初には先ず充分に型を練り、他の美点を学んだ上で、いよいよ最後に自分の個性を発揮するよう努められたがよいかと存じます。
次に「渋い芸」という事が非常に重んぜられ、どんな初心者でもむやみに渋く謡おうとする傾きがあるようですが、これも考えものと思います。芸術は、年齢や修行の結果によって自然と渋い味が出るので、故錦心師の如きも、最初は非常に華やかな芸風であったと承って居ります。
渋い芸が上品で、華やかな芸が下品とは限ってないので、華やかな芸風を発揮するのも一つの立派な道であると思います。
おわり