お読みいただく前に
これは小説です。登場人物は実在ですが伝聞を参考にした読み物としてお楽しみ下さい。
2020年6月 記
邦楽時代小説「ワレ幇間二非ズ」 作 谷中濤外
登場人物
永田錦心 錦心流琵琶の若き宗家、日本画家 31
榎本芝水 琵琶師、錦心の高弟 24
水藤枝水 琵琶師、芝水門下で興業師 21
大正五年秋 東京芝区の邸宅 時刻午后五時前
「永田」と書いた表札の玄関に袴姿の青年が立っている。男の名は水藤枝水、彼は表で円タクの到着を待っていた。確かに午後四時に車を回すよう頼んだはずだが未だ届かないのだ、彼は焦り始めた、何しろ今夜の座敷は大商い、一晩で大卒学士の年俸なみの謝礼が手に入る。俺も斯界で飯を食っている男、まとめた話は百や二百ではない。しかし今夜だけはちと勝手が違う。出し物が大先生永田錦心だからだ。
ー 永田錦心 幼少時から画才を表し、日本画家として頭角を現しつも、高校時代に学友と聞いた薩摩琵琶に感動し斯界を志す。当時鹿児島の一芸能だった薩摩琵琶に訛りのない東京の芸風を加味し世に広めた。先日初の御前演奏の栄誉を得た事が新聞に大きく取り上げられ、今や時の人になったが、本人は相変わらずひょうひょうと琵琶の研究稽古の合間に日本画に取り組んでいる ー
過日、畏れ多くも新天皇となられた嘉仁陛下の御前で演奏するという栄誉を得てからというもの、お上の天聴に達したという錦心の芸を一聴したいという申し込みが殺到、もとよりレコードの吹き込も多く、各種の依頼を捌くのに適任だったのが琵琶師でありながら芸能興業に長けた枝水だったのである。彼は此の頃は専ら錦心の鞄持ち宜しく付き人業が増えていた。
「下らん依頼は断るか、門人の誰かに振るように」、錦心は芸能者というより孤高な芸の探求者である。しかし人情厚い江戸っ子の気風も持ち合わせており、大枚積まれても一蹴するかと思えば恩師所縁の演奏会には無報酬で出演するどころか巨額の祝儀を包んだりしている。要するに大先生を動かすにはちと工夫が要るのだ。
先日さる富豪から永田錦心の美声を聞きたいと話を受けたのは枝水である。日露戦争の特需で一財産を築いた豪商は実はいくつかある。男もそのうちの一人で都内の一等地に邸宅を構え、時折高名な芸人を呼んでは友人知人と楽しんでいる。先帝が身罷られてしばらくおとなしくしていたが、喪が明けてそろそろとまた趣味の虫が動き出したのだ。枝水は別の事で富豪と面識があった。彼が枝水に「聞くところによると君はあの琵琶の永田錦心の弟子だそうぢゃあないか、礼に糸目はつけんから是非呼んでくれ給へ。陛下に届いた妙技を是非拝見したい」と頼んできたのだ。枝水はまさか断るだろうとと思いながら通常の琵琶師謝礼の五十倍以上である千圓をふっかけたところ、二つ返事で構わぬと言われて支度金を受け取ってしまったので枝水は引くに引けなくなってしまった。それからというものの、枝水は大師匠である錦心をあの手この手でなだめすかせ、元号が変わった慶事だからとやっと首を縦に振らせたのである。そしてその日が今日来てしまった。
遅い、車も遅いが大先生が屋敷から出てくる気配もない。やがて向こう通りの角をタクシーが曲がり向かってくるのが見えた。車は枝水の前で停まった。中から眼鏡を掛けた歳二十代半ばの青年が降りてくる。手に大きな琵琶袋を抱えた男は枝水の師匠榎本芝水、黒紋付きに袴姿である。
「枝水君、思いのほか路が混んでいてすっかり遅くなってしまったよ。大先生は用意の程は如何かな?」
「いや、それがまだ書斎からお出にならんのです」
「そうかやっぱりな。大先生昨日の稽古で、画展の出品作が遅れていると言われていたのでつい描き始めてしまったのだろう、なにしろ熱中すると周りが何を言ようと聞こえなくなるお方だからな」
「先生、その琵琶は?」
「ああこれかね、転ばぬ先の杖だよ。大先生は琵琶を持ってこぬ事があるからね」
言われて枝水も先頃の事を思い出した。永田錦心がレコードの吹き込みをした際に、肝心の楽器を持たずに手ぶらでスタジオに現れたのだ。その時は榎本芝水に連絡が行き、彼が琵琶を持ってくることで事なきを得たのだ。
「あんなことはもうこりごりだからね、だからこうして先の杖を持ってきたのさ」
二人は苦笑に似た笑みを浮かべて笑いあった。宗家はこだわるところへの執着はすごいが、こだわらない所への手抜きさ加減も半端ではない、しかし事は琵琶である、仮にも琵琶の宗家が肝心の楽器に無頓着なのは困ったものだ。
「どれ、私が行って先生にハッパをかけてこよう」
榎本芝水は乗って来たタクシーにこのまま待つよう指示を出すと、抱えた琵琶を枝水に預け、宗家の邸宅へ入っていった。
十分ほど経ってやっと榎本芝水に連れられて錦心が玄関に出てきた。永田錦心、今年三十一になる若き琵琶界の王である。涼しい眼に髭を蓄えている。
「いやあ枝水君すまんすまん、つい絵に夢中になってしまってね、すっかり遅くなってしまったよ」
「先生、もう急ぎませんと時間がありません」
「判った判った」
錦心は申し訳なさそうに言ったが、屈託のない感じであまり謝った感じでもなさそうだった。
「芝水先生。大先生の琵琶は?」
「ああやっぱり思った通りでまともなのは一面もなかった。持ってきて良かったよ」
錦心は今日も手ぶらで行くつもりだったのだ。芝水師匠の気回しがなかったらと思うと、枝水は背筋が凍る思いがした。
袴姿の三人がタクシーに乗り込むと、車は都心に向かって動き出した。車に乗って仕舞えば東京の町は殊の外狭い、数十分で日本橋にほど近い閑静な住宅街の一角に着く。大邸宅、そこは〇〇某と書かれた表札の豪邸であった。枝水が一人降りて中へ訪ね行くと番頭らしき人物が現れた。
本日弾奏を頼まれている琵琶の永田錦心一行である旨を伝えると、番頭は入り口は此処ではなくもうひとつあるという。なにかいやな予感がしつつも枝水は車をもう一角曲がった側の入り口へと車を進めさせた。そこは先程の門構え程ではなかったが、やはり立派な入り口であった。
「大先生、着きました。」
三人は車を降りると屋敷に入り、楽屋と思しき和室に通された。しばし打ち合わせをする三名。
「枝水君、今日は何を演ればよいのかな?」
「一応二曲ほど、中身はお任せと言われておりますが、やはり『石童丸』は必須かと」
「ふむ」
錦心の顔が少しゆがんだ。先年、レコードの石童丸が発売されて以降。永田錦心の石童丸は流行歌の代名詞になっている。
ー 石童丸とは筑前国の武士、加藤左衛門の長男の幼名である、出家してしまい高野山に修行で籠もった父に会うため石童丸母子は旅するのであるが、女人規制の山に母は入れず、石童丸が一人訪ねても父は父と名乗らず、やがて母は病死、父子二人は永遠にすれ違うという悲哀の物語が『石童丸』だ ー
石童丸は末端の錦心流門人も依頼されることが多く、琵琶人のメシの種、いわばドル箱の曲である。しかし、当の錦心にとってはもうやるのも聞くのも辟易しかけている事は枝水も芝水もとっくにご承知なのであるが、大衆はそんなことはお構いない。なにしろレコードでしか聞いたことのない本物である、生で聞きたいと思うのはしかたないことであろう。がしかし、
「石童丸は判った、しかし大正の慶事祝いに石童丸はちと悲しすぎる気もする、最初は明るい題材の歌がよいだろうね」
榎本芝水が口を開いた
「大先生。蓬莱山か金剛石ではいかがでしょうか」
蓬莱山は元々古歌ではあるが縁起のよい歌で、その一節がそのまま国歌の君が代に採用されている。金剛石は先帝の皇后昭憲皇太后の作歌で、若者の生きる道を説いた人生訓、共に琵琶歌である以上に日本国の代表的歌でもある。
「そうだな、少し固い気もするが、石童丸と釣り合いがとれる選曲かもしれないね。判った、金剛石と石童丸としよう」
永田錦心がうなずいた頃に、戸の外から声がかかった
「ご一同様、準備整いましたのでお座敷へどうぞ」
榎本芝水が横で琵琶の調弦をしている。音が決まると三名は家人に案内されて宴会の行われている座敷に通された。
主人が永田錦心の紹介をしている声が廊下にも聞こえる。度々著名な芸人を呼んでいるとの文言をいう主人はなるほど芸人を招き慣れているらしい。襖が開き百畳はある大広間の左右に並んだ客席に五十人あまり、錦心の琵琶を聴きたくて集まっている。ただ、奇妙なことに座敷の舞台には主人の座と卓が置かれ。主人と思しき人物が殿様然と鎮座している。座敷の中央が奉行所のお白州のようにぽっかりと空いていた。
枝水が入り口で感じたいやな予感が的中してしまった。富豪の主人は招いた錦心を芸人然と処遇しているのである。枝水は全身に冷や汗が噴き出すのを感じたがもう遅い、門人二人を廊下外に残したまま錦心は、琵琶を持ってつかつかと歩き出すと白州の中央に立ち、上座の主人と相対した。
「本日お招きいただきました、琵琶の永田錦心と申します。失礼ながら私は此処で弾奏すればよいのですかな?」
主人の上手にいた執事らしき家人が言った。
「そちらでお願い致します。」
「座布団がないようですが?」
「当家では芸人に座布団は用意してございません。申しわけありませんがそのままおかけ下さい」
うなずく亭主に錦心は言葉を荒げず、しかし静かにはっきりと語り始めた。
「ご主人、お宅様はなにか勘違いをしておられる。我々琵琶人は確かに芸をしますが、その芸は単なる曲芸、慰みのものではありません、遙か先の先人の運命、気高き生き様を物語るを生業にしております。語りの中に多くの戒め、教えが含まれておりますその点をご配慮いただきたいのです」
主人もさすがにまずいと思っただろうが、大枚を出すのである。今回は引く気がないようだった。
「そこの水藤君には尋常ならざる支度金を払ってゐる。今日の所はそのままでやってくれ給へ」
錦心がしずかに言った。
「われは幇間にあらず、そういう芸がお望みならば、然るべき置屋に頼めばいくらでもくるでしょう、琵琶とはそういう芸ではないのです。それでは失礼する」
主人が唖然とする中、錦心はそう言うと、入ってきた襖からそのまま玄関へすたすた歩き始めた。付き人二人もそれに習って屋敷を出て行った。
うしろで主人の罵り声が聞こえたが、最早なんと言っているのか分からなかった。
陽はすっかり落ちてあたりは夜になったが、帰りのタクシーの中で枝水は別の意味で眼前真っ暗になっていた。もったいない、一晩千圓の儲けがパーだ。主人にもう少し根回しすべきだったか。それとも大先生に、いやいやいずれも上手くいかない。
「枝水君、預かっている報酬はのしを付けて返しておいてくれ給えよ」
錦心は車内で一言そういうと、それ以外はしゃべらなかった。
榎本芝水もやれやれという感じで持ってきた琵琶を抱え終始無言だった。
「さて、今日はごくろうさん、明日は朝から稽古だったね、又よろしく頼むよ」
錦心はそういって自宅に戻ると書斎に入ってまた絵の続きを描き始めた。
この時錦心が書いていた日本画は、日展に出品すると堂々入選したそうだが、枝水の目には絵の良さはさっぱり判らなかった。絵のことなどどうでも良い、この世は金だ。次はもっと上手く立ち回ろう、懲りない枝水は錦心の力作を眺めながら、また次の商機を考え始めていた。
「ワレ幇間二非ズ」おわり
※幇間(ほうかん)宴席などで遊客の機嫌をとり、滑稽な動作・言葉によって座をにぎやかにすることを職業とする男。たいこもち。
※大先生(おおせんせい)師匠の師匠、宗家