[肥後琵琶](中) 山鹿良之

琵琶機関誌”京絃”に昭和54年(1979)掲載された寄稿文、その続編です。

門弾きの体験
 山鹿さんは、福岡県は筑後平野にある山門郡瀬高町清水という部落に門弾きに行った。それまで独りでしたことのなかった山鹿さんは、家の門口に立ってはみるがなかなか家の中へは入れなかった。けれどもその日の宿も確保しなければならず、恥ずかしさで顔を真っ赤にしながら琵琶を弾いた。一曲を弾き終わり、どうにか仕事をすることが出来た。そこで家の人に「このへんにどこか泊めてくれる所はないでしょうか」と尋ねてみた。すると家人は近くの本吉というという部落に琵琶語りさんが居て、この辺に門付けにくる芸人さんがよくその家に泊まるということを教えてくれた。本吉のその家に行ってみると丁度、家の主人である石橋福太郎という琵琶弾きさんが門弾きから帰ってきたところであった。宿を頼んでみると「良かですよ、泊まんなさい」と心よく云ってくれた。(門付けをする芸能者たちはこのようにして互いに助けあっていたのであろう。)

翌日、山鹿さんは溝口(現筑後市)という部落に門弾きに行った。ある農家では近所の人が2-30人、山鹿さんの琵琶を聞きに集まってきた。(このように一軒の家の座敷に多くの人を集めて聴かせる琵琶のことを、肥後やその周辺では座敷琵琶といっている)。その家の主人は、また自分の家の”わたまし“をしていないので、是非わたましを語ってほしいと山鹿さんに頼んだ。山鹿さんが今わたましは稽古中で、まだ上手に出来ないからと断ると、「良か良か、なんでも良か、あんたの知ってることでよかけん。」と主人は云ってくれた。主人の注文は、最初に何か「祝い物」を語ってくれということであった。山鹿さんは祝い事には「岩戸開き」その他の目出度い語りものや、正月に唄う端歌などを演ずることにしていた。

剣の巻
 山鹿さんはまず祝いの端歌を唄い、そして段物を一段語った。すると近所から聴きに来ていた一人のじいさんが、「釜さん!あんたは『剣の巻』を語ったこつのあるのか」と尋ねた。(筑後地方や肥後北部では、琵琶弾きさんのことを釜節と呼ぶのでじいさんは釜さんと呼んだのであろう。)山鹿さんが知らないと答えると、「なん!剣の巻を知らんちゃ!剣の巻を知らんと何になる!」じいさんは居丈高に山鹿さんを叱ったのである。その晩山鹿さんは剣の巻のことが気になり、どうしても眠れなかった。

翌朝早く暇乞いをして、山鹿さんが出掛けようとすると主人は引き止めた。「今日は九月九日の節句で栗飯も出来とるけん、早う栗飯食わんのう!そしてゆっくりして行ったら良か。わざわざ遠くから来とっとに五日でも十日でも何日でも泊まって良か。この辺りは広かけん近郷を門弾きをして廻らんのう。何日泊まっとっても米ば貰わんばい。」と親切に云ってくれた。しかし山鹿さんは一刻も早く本吉の石橋福太郎さんの所に戻り、剣の巻のことを尋ねてみたかった。山鹿さんは主人に丁重に礼を云い、本吉へと向かった。山鹿さんは福太郎さん方に戻り、昨日の溝口でのことを話し、剣の巻のことを尋ねてみた。福太郎さんは剣の巻のことを知っているが、自分はまだ語れないと云っていた。この剣の巻というのは、平家物語の剣の巻に由来する北九州から熊本にかけて広く親しまれた語り物の外題のようである。恐らく琵琶師達はわたましの際、剣の巻などの語り物も語ったのであろう。剣の巻は琵琶師にとって師匠から容易に教わることの出来ない奥伝の語り物の一つであった。
初めて独りで行った門弾きの体験から山鹿さんは多くのことを学んだのである。門弾きに行った先々で人々は山鹿さんに多くの課題を与えてくれたのであった。

竹沢こうぎょく
 その後暫くして山門郡三橋村に門弾きに行った折、山鹿さんは滑稽物の得意であった竹沢こうぎょくという琵琶師に出会い、三週間ほど一緒に門弾きして廻ったことがあった。(滑稽物のことを肥後琵琶では一般にチャリ物と称している。チャリ物は、演唄の最後をお笑いで締めくくる場合に語られることが多く、時には段物の合間に気分を変えるため語られることもある。)山鹿さんは、竹沢さんを始め仲間の琵琶師達から機会ある毎にチャリ物を含む多くの語り物を習い覚えた。また、その代わりに自分の知っている外題を教えたりもした。芸達者な素人から「魚つくし(チャリ物)」などを教わったり、座敷を拾って歩いていた浪曲師から浪曲を習ったりしたこともあった。こうして山鹿さんの語り物のレパートリーは次第に増えていった。

盲僧から学ぶ
山門郡高瀬町には玄清法流の盲僧である坂本佐一さんがいた。山鹿さんは門弾きに出た折、この坂本さんに出合ったことがあった。山鹿さんは仲間の竹沢さんが、わたましの柱だけの中で「一本の柱は一天子、二本の柱は日天子。」と云っているのを以前から不思議に思っていた。そこで坂本さんに尋ねてみた。「坂本さんは一天子というのは何神さんのかい?おら一天子というのは知らん!、仏さんのことは知っとるばってんが、神さんのことをは知らんぞ!その一本の柱は日天子というのは間違っとらんが…」と云っていた。「じゃあもう一本の柱は何さんの護り神ですか?」「それはお月さんたい」と教えてくれた。また山鹿さんは坂本さんにまだ全部覚えていなかったわたましの詞章を、その折に最後まで教えてもらった。「先ず一番の柱、たてぞめの柱は大黒柱と清め奉る、月天子の護らせ給う。第二番の柱は日天子の護らせ給う。第三番の柱は三世の諸仏、第四番の柱は四天王宮地岳三社大権現、家内安全と護らせ給う…。」
山鹿さんには、同業の琵琶師達との付き合いばかりでなく、坂本さんのような天台宗の盲僧との付き合いもあったのである。山鹿さんは、このような様々な付き合いの中で自らの仕事に必要な事柄を次第に身につけていったのである。

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