琵琶機関誌”京絃”に昭和54年(1979)掲載された寄稿文の最終回です。
芸と祓い
山鹿さんは二十九歳で結婚した。結婚する前は筑後を中心に廻っていたが、子供が出来てからは南関町や山鹿市など、主に家の近くを廻るようになった。また山鹿さんの琵琶師としての活動は大変広いものであった。
座敷琵琶や、わたまし、釜は祓いの他追善供養、観音様、御大師様、神社の夜籠りー等、様々な機会に招かれ、琵琶を弾いた。仏事には般若心経、懺悔経、舎利経、三十仏などの経文や仏名を唱えた。また村の祝事の祈りに琵琶を弾いたこともあった。
戦前のことになるが、夏から秋にかけての時期には廻りきれない程沢山の仕事があり、くじ引きで廻る家を決めたこともあったと云う。この様に肥後琵琶は各地で盛んに行われ、人々が琵琶に親しむ機会も数多くあったのである。しかし戦後、特に昭和30年以降農村の人々の生活や娯楽の質が変化し、神仏に対する信仰が薄れていくとともに。琵琶師達の活動の場は急激に少なくなっていった。そして肥後琵琶は人々の記憶から次第に遠ざかっていったのである。
かつて人々にとって琵琶師は面白い語り物をもって来てくれる芸能者であり、また祓いをすることの出来る呪的能力者でもあった。また山鹿さんにとって琵琶の語り物を少しでも数多く憶えるということや、わたましの正しい詞章を覚えるということは、おろそかに出来ない問題であった。語り物を面白く語るということや、祓いの権威が山鹿さんの日々の生活を支えていたのである。
私は、さりげなく語られる山鹿さんの話の中に、半世紀にも及ぶ琵琶師としての生活の厳しさと、それに立ち向かってきた旺盛な生命力とを垣間見たように思った。またその話の内容は、肥後の琵琶師達のかつての生活を髣髴とさせるものであった。山鹿さんの内には肥後琵琶の世界が現在もなお生き続けている、山鹿さんには琵琶師としてこれまで体験してきたことの全てが昨日のことのようにありありと思い出されるのである。浄瑠璃の好きだったじいちゃん、天草の初太郎さん、一緒に門弾きして廻った仲間の琵琶師達、親切にしてくれた農家の人達…
ポンポンと良く鳴る琵琶の音、浄瑠璃と浪花節を混ぜこぜにしたような哀愁切々たる声、時折り思い出したように弾くひょうきんな琵琶の相の手。私はこのような素朴で温かい音の世界を持つ肥後琵琶に、限りない愛着を憶える。
山鹿さんは昭和51年の秋、東京の国立劇場で催された琵琶公演に同じ琵琶仲間の田中藤吾さんと共に出演した。大熱演であった。私は山鹿さんの演唱が少し乗って来たところで思わず拍手していた。私にはその拍手の音が山鹿さんの耳に確かに届いたように思えた。
終わり