明治後期以降、東京では一派閥を築く者が多く現れ、世はまさに薩摩琵琶のカンブリア紀ともいえる様相があった。ここでは主にポスト帝国琵琶と言うべき琵琶人と一派を特集、その第一回は平派、薩摩琵琶正派の若き宗家平豊彦を取り上げる。
平豊彦 (たいらとよひこ1872-1907)
明治6年4月鹿児島に生まれ、19歳郷里で既に妙寿派琵琶を修め22歳、琵琶を携え北海道に渡る。帰郷ののち兵役で海軍に属す、明治27−28年伊藤海軍大将の座乗する旗艦松島に乗り台湾澎湖島の戦いに参加(※1)。艦中では琵琶を弾じて諸兵を慰めた。のち帝国の台湾平定後台北県庁庶務課に勤務し、職を辞して鹿児島に戻りしばらく島津邸に奉仕する。明治32年上京、東京音楽学校庶務課係長、東京税務監督局に奉す。このころ同窓会等で招待され次第に薩摩琵琶の名手として知られていった。彼の芸風は一般からは派手な演奏と評された。明治36年春、赤坂霊南坂上の澄泉寺で”薩摩琵琶青年会”を組織する。「流派を問わず集い謡う」を掲げていた会は流の内外を問わなかった為、小田錦虎、肥後錦獅、山本錦園師等錦水会門人や寺尾彭、木上武次郎など名だたる演奏者が出演した。彼の得意曲は吉野落、錦の御旗、小督、石童丸等で、ことさら石童丸は泣かぬ者はいないとまで言われ、若き永田武雄(錦心)はその崇拝者としてその節回し等とても影響を受けた。
明治37年の日露戦争で有力会員が参戦したため会は中止。しかし門人希望者が続々増えたので氏は明治39年”薩摩琵琶研究会”と改称し会を再開させた。会は和強楽堂にて春秋2回の大演奏会を開くなどまたも隆盛を極めた。
明治40年8月病気療養のために鹿児島に帰郷、意を決し左足を切断するも病状回復せず、県立病院にて同年10月12日逝去。享年35歳
※1)明治28年3月、帝国軍が澎湖島に上陸した戦役のこと
逸話
幼き頃より琵琶を好み、就学前琵琶を嗜む父の不在時に楽器を取り出して遊んでいるのを父に見つかり止められるも、試しに弾いてみせたところ音調が確かなのに驚かれ、以来父に教わるようになり、齢19で平の親子琵琶と近所で評判となる。
氏は身体は大きくないものの肉付きの良い軀で年少時既に覇気があり相撲は素人ながら横綱並み、道を行けば人は平イモと称し道を空けた。
氏は琵琶のみならず、三味線、琴、月琴、笛にも秀で器楽演奏は万能であったそう。沖縄時代琵琶を携えて県知事奈良原氏を訪問した折、知事は大いに悦び夜を徹して鯨飲(※2)、同じく持参した月琴、胡琴を弾きこなしその多芸さに知事を大いに驚かせた。知事は平を困らせようと笛と三線を取り出して弾けというも、平意に介せず是等全てを弾きこなし知事を驚かせた。琉球語も堪能に話したという。
※2)鯨飲げいいん 鯨の如く大量に飲むこと
大磯にて皇孫殿下(※3)の御前で3曲を披露、また竹田宮殿下御前に招かれ数曲披露の経験するも生前門人に誇ることなく、氏の人柄の一旦を覗い知ることができる。
※3)皇孫殿下=昭和天皇裕仁陛下
明治40年左足を患い次第に座っての演奏が困難になる。正月和強楽堂演奏会の折、自ら演奏不可能と判断した平は、門人でもない永田錦心に石童丸の代演を依頼。演奏を楽屋で聞いていた平は、集めた門人に「錦心君の石童丸を良く聞き給え、俺は永田君に一度たりとも教えたことはないのに常々君らにやかましく言っているあの中干落とし、裏声の使い方、吟変わりの節回し等今初めて聞く永田君にまったく文句の付け所がなく俺の通りの節を詠っている。門外の永田君に負けないよう平の節を覚えなくてはならないぞ」と錦心を絶賛しつつ門人に諭したたという。
平豊彦の平派の活動時期は明治36年薩摩琵琶青年会旗揚げ〜同39年研究会再始動、病気で平の帰郷する明治40年夏までと非常に短く、奇しくも吉水派錦水会と時期も重なり同地域である、もし平豊彦が病没せずその後も帝都で活動を展開したなら、現在の琵琶界は随分違ったものになったと思う。
彼の死後、高弟の実業家木村平風氏を中心にその芸風を伝えるべく平絃会を組織したが現在の状況は不明。もし御覧の方でゆかりの方々の動向をご存じの方はご一報いただければ幸いです。
平豊彦の項 おわり
参考文献
琵琶新聞5号 明治42年6月 故平豊彦氏と平絃会
現代琵琶名家禄 大正6年 琵琶新聞社
水聲71号 昭和5年12月 薩摩琵琶青年会と平豊彦氏