大正12年9月1日土曜日
この日学校はお休み、冨美は朝から家の二階で琵琶の稽古。母は午後から用事があるというので身支度をしていた、丸髷を結う母くら。
「お義母さん留守番をお願いします、お姉さんたちも頼んだわよ。お母さん仕事してくるわね」
母は祖母や子ども達に留守居を頼むと黒羽織をはおり玄関を出た。辻向こうの路地を曲がって見えなくなる母。
二階の廊下で遊んでいる2歳の弟、一階に祖母、家事をしていた姉二人、徳と千代。
正午になろうという頃、俄に地面が揺れた。「あ、地震」余震が続く。冨美は琵琶を置き廊下の弟へいざって近づいた。祖母が心配して階段を上がってきた。揺れはだんだん大きくなりやがて経験したことのない振動が家屋を襲うと、冨美たちはもう3人すくんで抱き合うしかなかった。グラグラッ、バリバリバリ…ズシーン 大きな音がしてあたりが真っ暗になった。
どのくらい時間が経ったのだろう、上の姉の声が聞こえる。……!みんなー、大丈夫ー?!!
一階が倒壊したのである。偶然窓際にいた階上の3人は外へ放り出された。
「みんな死んじゃったかと思ったわァ」外にいた長姉の徳は崩れる家をみててそう思ったそうだ。
「千代ちゃんが…」千代「私は大丈夫よぉ。でも出られないわ」中から声がした。次姉は一階にいたが、箪笥の陰にいたので潰されなかった。家が倒壊したのに家族全員無事だったのは奇跡的だった。幸い火事にもならずに済んだ。
母が慌てて戻って来た、勤めに出ていた父や兄たちもも続々帰って来た。皆遠くからぺちゃんこな家を見て死んだと思ったそうだ。千代をがれきから助け出し、家族が無事と分かると今度は町の知人が心配だ。しかし今はいたずらに様子を見にいかんほうが良い、父の判断で一家は近所の役場に避難した。
いっぽう町の方はそうはいかなかった。冨美たちが元いた長屋はほとんど倒壊し、やがて火災が始まった。乾物やの長峰さんも倒壊こそしなかったものの類焼が恐いので大八車に積めるだけ家具を載せて避難が始めた。避難場所は横綱町の陸軍被服廠跡地だ。昨年軍需工業が移転してポッカリ空いた敷地には何万という人々が家財道具を持って押し寄せた。ところが各地から発生した火の手はしだいに大きな炎となり、やがて工廠跡地を四方から囲むと巨大な竜巻を発生させた。竜巻は人といわず道具といわず全てを空高く放り上げ、押し寄せる炎の中に容赦なく叩きつけた。
つづく