びわ師錦穣 第九話 死別

一晩経って、地震が未曾有の大災害だということが分かった。特に多くの人々が避難した横網の被服工廠跡地は遺体と瓦礫があふれ、長峰さん一家を含め旧知の多くが帰らぬ人となった。町は本所といわず浅草といわずその惨状を晒し、帝都が復旧するまでには相当の年月を要した。

父や兄たちは仕事どころではなく、職場に無事を報告するとすぐさま戻ってきて家の再建から始めた。まずは家をなんとかするべく母は柱とトタンで雨風しのげるだけのバラック小屋を建てた。次兄は木村屋のパンをどっさり買いこんできて皆を安心させた。家はしばらく未完成のままの日々が続いた。母は精力的に働き、保険に加入したり冨美の学校を休学させたりと相変わらず忙しくしていたがしかし、炎天下の中配給をもらいに行くと無理がたたって遂に母は過労で寝込んでしまった。

♫俺は河原の枯れすすき – 同じお前も枯れすすき – どうせ二人はこの世では – 花も咲かない枯れすすき…(※1)

母の看病をする姉と冨美。星空が見える屋根をながめながら、どこからか聞こえるラジオのはやり唄が冨美の心を悲しくさせた。

母が過労で寝ているところにつきあいのある映画琵琶の石井さん(のちの千代田錦城)が冨美を映画琵琶に出さないかと相談に来た。当時は無声映画に演奏を添える仕事があったのだ。冨美は即座にいやっと断ったが、その瞬間母の平手が飛んできた。生まれて初めて母にぶたれた冨美、
「聞き分けのない事を言うんじゃないの、冨美も遅かれ早かれ家族を支えていかないとならないの。ありがたいお話じゃない、むげに言うものではないわ」
思わず泣き出してしまう冨美、冨美を諭す母。冨美が母に叱られのはこれが最初で最後だった。
「ごめんね冨美、でも本当の事なのよ。これからは冨美も頑張って家を支えないと。さあ、明日は震災の49日だから被服廠にいって長峰さん一家にお線香をあげに行きましょう」母はそう言うと再び横になった。

その夜手を繋ぎ近所の銭湯に行く冨美と母。しかし母はそこでまた倒れて意識不明となった。最期まで家族のことを心配していた母、くらは数日間眠り続けたがついには目覚めず、僅か40年の生涯を閉じた。

つづく

※1)船頭小唄 大正10年 民謡”枯れすすき”として野口雨情作詞、中山晋平が作曲。翌年詩集「新作小唄」に”船頭小唄”と改題して掲載、大正12年女優中山歌子が吹き込み大ヒット、以降多くの歌手が録音、同年映画にもなった、そのさなかに関東大震災は起こる。

びわ師錦穣 目次へ第十話へ

Posted in びわ師錦穣

コメントは受け付けていません。