コラム① 大衆芸能としての琵琶と琵琶ゴロ

ここで少し本編とは外れるのだが、東京で流行った琵琶楽の歴史と、それにまつわる闇部分である琵琶ゴロに触れておきたい。

琵琶楽の、特に薩摩琵琶は九州薩摩武士の精神修養として受け継がれてきたという歴史がある。琵琶は古来貴人やもののふの生き様を吟じ、己が心の糧としたのである。吟じるのはそれを心得た薩摩男児に限り。女人禁制、演奏は神社仏閣等への追悼奉納や御前演奏を基とし、演奏は対価を求めないものであった。それが明治の終わりになると東京で大正デモクラシーよろしく民間人、特に女性の社会的台頭と共に琵琶も広く解放すべきという流れが起こる。それは福岡の花柳界を中心に興った筑前琵琶の爆発的流行と無関係ではないだろう。薩摩琵琶でも教育的意義を唱え、女性や少年にも門戸を開放した吉水経和が、帝都東京で門人を増やし、その一門の中に若き永田武雄、後の永田錦心がいたのである。

琵琶川柳に描かれた琵琶ゴロ (松亭)

無論この開放路線には反対派も多くあり、九州鹿児島での古来通りの在り方を良しとする一派(西幸吉をはじめ)と、もはや東京の芸として薩摩派と一線を画したい吉水派は論争にすら発展するが、大衆にそんなこだわりはなく、広く門を開放した吉水派(のちに帝国琵琶と称する)に続々入門希望者が殺到した。その門人も独立すれば普通に弟子から月謝も取るし、演奏すれば興業として入場料を取り暮らさなければならなぬ。さてそうなると、その矛盾の隙をついてなにかと批判や野次を飛ばし会を潰し、あまつさえ金品をかすめ取ろうとする輩が登場する。それが琵琶ゴロ、琵琶界のゴロツキだ。

現代の琵琶界ではそんなもの存在しなくなって久しいので、今の琵琶人貴兄淑女方が知らなくても無理はない。琵琶ゴロは、琵琶会で主催者や演奏者に野次因縁をふっかけ会を続けられないようにする。主催者はどうかこれでお収め下さいと進んで金一封を包むのである。イメージでいえば企業における総会屋や武道の道場破りがそれに近いだろうか。これが戦前の興業としての琵琶界に存在したアンタッチャブルである。市民権を得た薩摩琵琶が持つ精神的興りと、大金を生むビジネスとしての側面とのアンバランスな世界、それが、冨美の生きた帝都の琵琶界ということをご理解いただいて、さらに物語を進めてみたい。

コラム①終わり

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