大正14年2月吉日、枝水はタクシーの座席で腕を組みながら考えていた。
琵琶は舐められたら終わりだ。力ずくは俺の最も得意とするところだ。だがしかしこれからは違う、力より革新的な才能がものいう時代になった。大先生永田錦心はその急先鋒だった、それも間違いはない。そして今は女の時代でもある。あらゆる世界で女が男を凌駕する、これからは女が主役になるだろう。この波に乗り遅れてはいけない。
枝水は尚も回想する。
琵琶界に女流の名手が出てきたのがその表れだ。我が流でも柳澤くんは残念ことではあったが速水くん、福井くんなどが出てきた。決定的だったのは豊田旭穣だ、美貌と技能を兼ね備えた筑前琵琶の女王、是非ともこの手で豊田旭穣を凌ぐ逸材を育てたい、いや是が非でも育てなければならぬ。
その不退転な思いの元、枝水は女優(※1)の卵を探していた、その一人が冨美であった。枝水は幾人かに狙いをつけていたが結局不首尾におわり結果冨美に的を絞る。また育てるに若かった冨美の方が最適と結論づけた。
さあ後戻りは許されない、我が計画を実行するぞ。
タクシーが冨美の家の前に到着した、男は紋付袴の正装(彼には普段着)で、中村家の玄関に入っていった。
いっぽう中村家では冨美の縁談を祝う儀式が行われていた。
家族と別れの水盃を交わす冨美。
父「俺は食堂と金貸しに失敗し、苦労をかけたがお前の祖父は若州小浜城主酒井様の家来で中村四郎兵衛という徳川の陪臣だ。お前も武士の孫なのだから一度家を出たならどんなことがっても帰るな」
家族との挨拶が済むと水藤に引き渡される冨美。祖母は泣いた。
「冨美、琵琶は好きか」「はい」
「そうか、これからは私が父親だ、出世させてあげる。頑張ってついてこい」
「幾久しくよろしくお願いします」
身の回りの道具を手に、車に乗り込む娘、どんな暮らしが待っているのか冨美には想像つかなかったが、少なくとも悲しむべき門出ではではないと冨美は思った。エンジンに火が入り、動き出す車。
「家は近いし、盆暮れには里帰りもする、心配はしないで良い」
見守る家族一同、父親が悲しみを隠すように諸手を挙げ、万歳をした。
「ばんざーい、ばんざーい」
そうだこれは門出なのだ、悲しむ事はない。冨美はそう思うと後ろを振り返りながら手を振り返した。
つづく
※1) 女優 女流琵琶師のこと、当時は女流琵琶師をそう言った。
※当時の女流琵琶人についてはいずれ別話にて詳しく紹介いたします。