びわ師錦穣 第十二話 水藤家

「今日から俺の事はおとうさまと呼びなさい」「はい」
「人の前では余計な事は言わず、いつも黙ってなさい、返事はハイだ」「はい」
「家事、手伝いの類いは一切しなくて良い、料理などもってのほかだ、刃物や先の尖ったものには近づいてはならん。お前は琵琶の事だけ考えていれば良い。学校も退学させる。」
「はい。わかりました」
いきなり多くを約束させられてしまい面食らう冨美。
「それから、一番重要なことだが今日からお前の名前は静枝だ、水藤静枝。シズエと呼んだらちゃんと返事をするように」「あの、静枝とはどういう意味なんでしょうか?」
「いずれ分かることだが教えてやろう、筑前に豊田旭穣(※1)という女優がいる。今人気絶頂の琵琶の女王だ。彼女の本名が静枝でな、彼女の才能にあやかれるよう今日からお前は静枝にする。」「? はい」
車は西へと走る、当時の水藤家は東京市外地の淀橋にあり、佐藤高女のあった本郷菊坂よりさらに外れだった。
二階建ての建物は、ヨーロッパ貴族の住居を思わせる洋館で、いかにも立派な門構えだ。学校の校舎より立派だと冨美は思った。

家に着くと玄関から女性が一人出てきた。
「安平さんお帰りなさい、お嬢さんもいらっしゃい。あなた、みなさまお待ちかねですよ」
「静枝、俺の妻だ、家族の挨拶はあとでゆっくりする」
枝水の本名はあんぺいというらしい、そして奥様がいることは分かった。

玄関を入ると一階手前に大広間がある。扉を開けると中に女性ばかり20名ほど集まっていた。皆二十歳前後の若い女性で、着物だったり洋服だったりまちまちだ、煙草を吸っている女性もいる。14の冨美にはみんな学校の先生のように見えた。
「みんな、今日から私の養女になった静枝だ、仲良くしてやってくれ」
女性は口々に相づちを打ったり返事をしたりまちまちだ。
「この静枝を枝水会の宗家にする、俺は隠退だ」
すると今度は皆「えっ」といった表情で冨美を見た。宗家は何を言ってるんだろうといった表情が見て取れる。
「これからこの娘を一流の琵琶弾きに育てる。まだほんのこどもだ、宗家を育てるなど順序が逆だが協力してやってくれ」
目の前にいるお下げの少女が宗家?本気??。半ば呆れた表情とため息を漏らす女性、煙草をもみ消す女性から明らかに歓迎ではない、憎悪に似た空気が漂う。いきなりとんでもない舞台に立たされて、冨美はどうして良いのか分からなくなってしまった。
今日は顔見せだけだったらしく、女たちは部屋を出て行った。残った義父と娘。
「明日から稽古を始める。部屋に案内するから今日はゆっくり休め」
「…はい、おとうさま」
冨美改め静枝の長い一日目がおわった。

つづく

※1) 豊田旭穣(とよだきょくじょう1891-1929)筑前琵琶奏者、本名豊田静枝とよだしずえ。明治24年広島県福山出身、母親の影響で筑前琵琶を始め12歳の時一家で福岡に移り住み橘旭翁宗家、安倍旭洲両師に師事、明治41年居を東京に移し、以降全国で斯界の女王の名と呼ばれる活躍をする。詳細記事はこちら

びわ師錦穣 目次へ第十三話へ

Posted in びわ師錦穣

コメントは受け付けていません。