桃中雲右衛門*の逸話は沢山ある。私は今日までいろいろな話を聴いたり、本によって知った、あるいは雲右衛門が筑後川の向こう河岸に人を立たせておいてこちらの河岸から語る声が向こう岸まで届くように声を練ったとか、その他緒処に於ける苦労など実に数多くあるが私の最も感動し敬服したのは三光堂で蓄音機吹き込みの時の話である。
当日三光堂で雲右衛門との約束は「赤垣源蔵」?であった、しかるに吹き込みに出かけて行くとワックスの都合か何かで赤垣源蔵を止めて「堀部安兵衛」にしてくれと云われたので雲右衛門は「出来ない」と云って帰ってしまった。三光堂ではてっきり感情を害した事と思って尋ねにいったら雲右衛門の答えに「私は家を出るときから雲右衛門ではなく、赤垣源蔵になって出かけた。しかるに吹込所に行ってから急に堀部安兵衛になれない。なれないのに声と節と啖呵を並べたところでそれは嘘の芸だ。そんなものは私にはやれないから帰ったのである」という意味のことを云ったそうだ。それには三光堂も大いに感じて後日改めて吹込をしてもらったそうだが、私は雲右衛門の偉いところはこの点にあると思う。ここに重点を置いて、それから声の修練もなにもあった事と思う。
声とか、節とかいうものは要するに着物である。そしてボロ着物よりも紋付き羽織に袴着用の方が結構ではあるが、それよりも結構なのは人間の価値の上等の方が更に結構である。猿に紋付羽織袴と第一公式の体裁をしたところで、猿はどこまでも猿である。我々はこの点にお互いに注意しようではないか。
*)一世を風靡した浪曲師