薩摩琵琶の歴史の梗概と批判及びその要素

祖先を尊ぶことは、我が日本民族の特性で世界に比類なき美点である。
祖先を誇るのは自分の無能を表示するもので、実に恥ずべき呿言である。
祖先の功労の蔭に隠れて、安きを倫む事は甚だしい罪悪である。
祖先のことが分かれば、祖先より以上のものになるべく努力せねばならない。
これがなければ生命が絶える。
眼前の小利に目がくらんで歴史を汚すような事があれば由々しき堕落である。

以上は薩摩琵琶の歴史の梗概と要素というものと無関係と思う人があれば大間違いである。

現代の教育が試験万能のために、その波及するところ皆試験万能とまでなり、その教育が功利主義的人物製造のような仕方なるがためにただでさえ暗記ものとして取り扱われやすい歴史をば、一層暗記物として扱われるようにし、試験さえパスすれば他のことはどうでもよろしい片付けるようにしてしまったのは国家的には大きな損害と云わねばならない。

歴史は観念の学問
 歴史は実に観念養成の学問である。観念の養成を抜きにして歴史を百編教えても、千巻の書を読ませしめてもそれは何にもならない。いたずらに物識りを作るだけで結局カモメやオウムに芸を仕込むに等しい。この点は政治家にも学者にも役人にも、読者にも特にご注意願いたいのである。
 それから順序として薩摩琵琶になる前のこと、つまり薩摩琵琶の先祖のことを述べるが、元々薩摩琵琶の歴史を述べるのが主であり、それが目的なんだから薩摩琵琶の先祖の歴史は簡単にさせていただく。しかし詳細に知りたい人は、現在埼玉県の川越中学で教鞭を取っておられる飯田胡春氏、または島津久基氏(確か飯田氏と同期に帝大を卒業されたと記憶している)等に教えを乞われたら、両氏とも相当その道に苦労された人だからおおいに得るところがあると思うし、館山漸之進著の平家琵琶、太平記、源氏物語、源平盛衰記、平家物語、徒然草などを調べるのも一法と思う。また天台宗の方面で調べるのも良かろうと信じる。

名称と起こり 
 琵琶のことを世間では、ベロンベロンという。ちょうど三味線のことをペンペンというと同じだが、これをインドでは「ビーナー」と称し、支那では「ヒーハー」といったが、わが国ではこれを「琵琶」という。
 インドだの支那ではわが国に於いて三味線のことを子供がペンペンと云うごとく、極めて幼稚ななを付けたが、日本における呼称はそれより進んでいる訳である。
 琵琶の発生地はインドである。そしてインドから万里の波濤を乗り切って日本へ直接来たという説と、それから千山万岳を踏破して支那大陸に入り、後に日本海を渡って日本へ来たのだという説と二つの説があるが、学者はどなたもなるほどと思えるようなことを述べているが真ん中に挟まった我々はどれが本当なんだか分からない。けれども分からなくても構わない。そんなことはどこへどうなったところでなんの変哲もないことなんだ。まあ理屈は学者のほうで腹の空くまでやっていただこう。

雅楽琵琶の家元 
 さて、薩摩琵琶は本、平家琵琶から出たものであることは明らかなる事実である。そして平家琵琶は雅楽から生まれたのも明らかなる事実である。
 雅楽は今も尚宮中で行われているし、かの西園寺公望公爵はその家元であることは世間周知の事実である。
 雅楽琵琶でも平家琵琶でも、畏くも天皇にして名手であらせられた方々が沢山おいでになる。
 雅楽琵琶の歴史を調べ、また現在の雅楽琵琶を聴いてみるのに、これはもっぱら貴族間に行われたものであるということが肯定できる。貴族生活の反影であるところの理知的な、形式的な点がよく窺える。

平家琵琶

 それからこの雅楽琵琶の範囲を武家階級まで拡張されて平家琵琶というのが生まれた。
 かなり強い意地、烈しい感情、そして理屈が交錯した当時の中流階級であった武人の生活が織り込まれた平家琵琶には、以前とは味の変わった情熱味の加わってきたが、しかし依然として貴族的気分の濃厚さはあった。
 この雅楽琵琶や、平家琵琶の時代には藤原貞敏や蝉丸や、博雅三位等々の名手が出て、斯道はいよいよ盛んになり、王朝時代には花下風月の遊びには必ず琵琶が付きものであったそうである。
 とにかく文句なしに理屈抜きに平家琵琶は確かに高尚典雅なものである。平家琵琶は下品なものなりとは誰も断言できないと思う。
 私は先年上野で瀬川翁の平家琵琶を拝聴して実に高尚典雅な、そして一脈の情味の線の通った、まことに結構なものだと感じた次第である。つい先だってまで翁は千葉県の市川に世塵を避けておられたが、もう故人になられた。
 上杉謙信や天徳寺了伯などが平家琵琶を聴いて潜然と泣いたことなどは諸君は既にご存じのことと思うが、当時の人達は耳で聴かずに心で聴いたこと、弾奏する者も口先や咽喉で節回しばかりを聴かせたのではなく、心で弾奏したということを考えると自ら頭が下がる。
 以上のようなわけで、始めはもっぱら宮中にのみ行われた雅楽琵琶も、平家琵琶になってからは当時の武家階級にまで拡がったと思っていただければそれでよろしい。
 雅楽琵琶、平家琵琶については、私はこれくらいの程度に止めておきたい。これ以上は雅楽琵琶師、平家琵琶師の畑、または学者の畑であるし、かつ詳細に述べれば優に大冊が出来るくらいであるから他日の機会に譲ることにさせていただく。

薩摩琵琶の生みの親

 さて、いよいよ薩摩琵琶のことを述べる順になったが、薩摩琵琶のことを述べるとなると勢い島津日新斎のことを述べる必要がある。
 諸君は、九州を併合して遂に太閤秀吉を向こうに廻して頑張った島津義久、又は秀吉の朝鮮征伐の時、泗川新寒に十万の的を屠って明軍の心臓を縮み上がらせ、関ヶ原の戦に西軍の花とうたわれ、その武勇を全国に輝かせた島津義弘、この兄弟をご存じのことと思うが、その兄弟をあれまでに仕上げたのは、その祖父島津忠良、号を日新斎と称した人である。この島津日新斎が薩摩琵琶の生みの親である。
 ところで故寺尾彭翁(号蓬国)の手記には、頼朝の子、島津忠久が薩摩へ下向の際、宝山検校という琵琶法師を同行させて、その宝山検校が陣中で琵琶を弾じて士気を鼓舞したと書いてあったが実際は士気を鼓舞することが目的ではなく、結果が偶然士気を鼓舞した形になったものであるとも云えるし、また副産物であったとも云えるのである。また琵琶もその頃は薩摩琵琶としての形態を備えてはおらず、歌詞も薩摩琵琶としてのものは出来ていなかった。
 陣中で弾じた琵琶というのは、国土三界の守神土荒神を祭る時に用いたのである。それについて、故黒田清綱候の御令息清秀氏の御宅にある薩摩琵琶由来記を拝借すると。

薩摩琵琶由来
 夫れ、薩摩大隅の国内に地神盲僧及び俗間のもの、常にもて遊べる琵琶は、其の形大よう平家琵琶に同じといえども、それに比すれば稍小さく、撥は却て大にして扇を開けたる形の如く大同小異のものというべし。
 その琵琶を弾ずる事の国に行われしは、地神盲僧より始まれるにや、その由来を尋ねるに、むかし島津氏の元祖薩摩日三州を賜り薩摩に下向ありし時、鎌倉にて天下のご祈祷をなせし宝山検校という盲僧を頼朝より附けて薩摩に下りし給い、阿多郡伊作中島という所に住居しもとより天台宗にて、もっぱら妙音菩薩の徳を尊敬し、手に琵琶の妙音をしらべ、口に地神の経文を読誦し、国土安隠の祷をなせり。
 それより以前、桓武天皇の御宇、五蛇の妖怪ありし時、筑前の国より満市といえるもの、他に七人の盲僧、勅命に応じ都へ登りご祈祷丹精を抽んで、妖怪忽ち鎮まれる事ありし由奮起にも見え、宝山はその満市の流れにて、今に至り一流断絶なく薩摩に伝わり、琵琶を弾じ祈祷すること変わる事なし。
 かの信濃前司行長が、平家物語を作り、盲僧生仏に教えて平家を語り始めしは地神盲僧満市より遙か後の事なれば、其の琵琶の形異なるとあるも、いずれを根本とし、いずれを新作とも分け難し。まして朝廷の宝とせし青山といえる琵琶を平経政写して「ほととぎす」と名付けられし琵琶の桧圖にも其の形地神盲僧の琵琶に多く異なる所ありしとも見えず。又当時俗間に其の琵琶を弾ずるものあるは其の音地神盲僧は軍陣にも従いしこと度々なりし故、武士いと備えの祈節その琵琶の音声に感じ、手づから弾ぜしこともありしより自然と風をなし来れるにや。
 元来、地神の琵琶は祈祷をなせし時の用にして、初めより琴のくみ、三味線の手の類の如き定まりたる曲調とては聞き及ばざりしかども、先代伊東義祐と戦い、日州悉く手裏に入りし時の事、及び、龍造寺隆信を討ち取りし時の事、その他緒所の戦の形勢を歌に作りて、それを崩れと名付け、別に端歌といえるも数々ありて、琵琶に合わせて是等を歌い、また門琵琶とて、歌を用いずして弾ずる一曲ありて、其の調おのおの変わり、勇ましき処もあり、あわれなる処もあり、さまざまの調べを聞くに面白く、今はそれを手数といいて地神一派のもの其の手数を弾じ、俗間年若きものもてあそび、中には勝れて音声の妙なるをあやとりなせるものも多かりき、彼の大隅国池田甚兵衛というものも名を得たるものなるや其の事を尋ぬるに今ここに聞きおぼえし者もなし。
 右は黒田清綱が祖父御記録奉行たりし時、寛政年中公命を奉じて誌し置かれしものなり。    終

 以上でも大体は窺えるが、しかし我々専門家の立場からするといささか物足りない。なるほどと思える点もあればまたちょっと分からない点もある。
 そこでもう少し詳しく述べてみよう。

薩摩琵琶由来に対する考察
 頼朝の命を受けて島津家の初祖島津忠久に随従して、鎌倉から宝山検校という琵琶法師が薩摩へ下向した。この宝山検校は、かの有名な蝉丸から十五代目であったか十九代目であったか私は明確に記憶していない。大方のご教示を乞う次第である。
 彼は薩摩に下向してから、島津家はもちろんのこと、大友、菊池、小貳等々の為に国土安穏、五穀成就の祈願をなし、また島津家のために戦争の場合は軍神を祭り、平和克服を祈願した。
 当時宝山は薩摩の国伊作郷に地を賜り云々、と記録されているからなかなか勢力があったに違いない。
 ところで、陣中で琵琶を弾いてご祈祷をした起源は太古天竺で、妙音菩薩変身の聞全大王(もんぜんだいおう)が天地日月の勝負の時、これを鎮めるために天生地神経を琵琶に合わせて弾奏して戦を鎮めたという事が始まりである。今その縁起を述べるとこうだ。
「堅牢土荒神守神とならんとする誓願のとき、天地日月の勝負分け目の軍となる。妙音菩薩変身の聞全大王巌の上に立ち上がり、東西南北鎮まり給えと大音揚げ、事々の次第を説き聞かせ参らんせんとて、天生地神八様経を、琵琶を弾じて演説し給えば、四方四人の王も弓の元弦を伽し、兜を高緒にかけ給う。中央の五良の王も、抜いたる剣を鞘に納め、五方万事鎮まって琵琶を聴聞仕る。その時聞全大王は金の錫杖を以て其地を四方に分かち、天地日月の守護勝負を分けさせ給う。その時の五人は今の家屋敷を守護し給う堅牢地神士荒神なり。今に至るまで琵琶を弾きて上荒神を祭るは右の次第なり」

挿話
 ここでちょっと思い出したのは日露戦争直後の出来事である。例の科学万能の欧米各国の中でも、特に一頭地を抜いたドイツでは、あの途方もない大きな国、強い国を以て名高いロシアに、蕞爾(※1)たる島帝国の日本が見事に勝ったのはどういう訳だろうと不思議に堪えなくていろいろ調査したところが、日本には大和魂というものを皆持ち合わせているとの報告である。ではその大和魂はなんで出来たか調べろ、という第二の命令である。そこで一生懸命になって調べたら、日本人は豆腐を食う、この豆腐が大和魂の基で日本人は豆腐を食うことによって大和魂を得たのであるということになった。我々日本人に取ってみればさっぱり訳の分からない話だが、また大和魂にとってもはなはだ遺憾な話だと思うが、科学万能のドイツあたりでははなはだ大いなる発見であったに違いない。そこでドイツではそれっとばかり豆腐を大に奨励したそうだが、こうした科学万能の国の輸入学問をした人達には前述の縁起を読んだら吹き出すかもしれない。だがそんなことは我々にはどうだって構わない。

※1)蕞爾(さいじ) 非常に小さいこと

さて、話を元のレールの上に乗せて、後世にいたり妙音天を軍の守神として崇むるのも聞全大王が妙音菩薩の化身であるということに始まり、琵琶法師が従軍して、琵琶を以て地神を祭るのも、小は一家、大は天下に至るまで皆堅牢土荒神の守護するところであるとの伝説に起因している。
 こうした祈祷………といったものを陣中で行うと、侍たちは「今此方が勝って戦がおしまいになるとか、矢が当たらないとか思ったに違いない。変な言葉を使うようだがつまり迷信的安心というようなもので侍は良い気持ちで戦争したに違いない。ここをば「陣中にて宝山が琵琶を弾いて士気を鼓舞した」と寺尾翁は云ったのではあるまいか。
 しかしこれより後、島津家十五代の主貴久の父島津忠良すなわち日新斎の世になって琵琶を以て本筋の士気鼓舞が行われるようになるとは聞全大王も気が付かなかったろう。

日新斎の生い立ち
 さて、薩摩琵琶の生みの親島津日新斎は幼名を菊三郎と呼ばれ、長じて忠良といい、後に日新斎と号し愚谷軒とも称えた。
 生まれたのが明応元年九月とあるから応仁の乱後十数年であろうか。
 ご存じの通りその頃の都は兵燹(※2)の為に廃墟に等しい荒れ方で、皇室の式微は申し上げるも畏き極み、人と応対するのに着物がないために蚊帳を着て現れたお公卿さんがあったとかいう頃、それに将軍とは名ばかりでまるでロボット同然、なんらの威令行われず、道義は古新聞より権威なく、全国至るところ合戦だらけで、君臣の間柄だろうと親子の間柄だろうと兄弟同士だろうとそんなことは一切頓着なく、夜討ち朝駆けで城や首を多く取った者が幅を利かせた厄介千万、危険至極の世の中、そしてそれが元亀天正の群雄割拠時代の序奏曲だったんだから日新斎も面倒な時代に娑婆へ飛び出したもんだ。
 假令(たとえ)それが西海の端くれ九州の一隅であっても、ご多分に漏れず島津領も戦乱に次ぐ戦乱を以てし、修羅の巷に阿鼻叫喚の渦巻は何時果てることやら見当のつかないありさまで、近頃の言葉で言えば、曰く何とか難、曰く何とか難と実に難だらけで、領民は常に命がけの軍夫に引っ張り出され田畑は踏み荒らされ、その他の微発だなんだかんだでその疲弊困憊はおそらく近頃の農村不況問題どころの沙汰ではなかっただろうと想像される。
 しかし侍の方でももう戦は飽きてきた。
 軍人が戦に飽きたらおしまいである。士気が衰えて、農民が疲弊しきっては国はうまく行くはずがない。タガの緩んだ桶同然で形はあっても実際には役に立たない。そこで、これではならないというのでそのタガを締めるために、十四代主勝久の代には儒教を奨励したが、元々ダラケた人達にはたとえそれが領主の命令であっても単に耳や眼まで入るのみで、心までは浸透しなかった。今でいう精神講話や訓辞もやったが効果があがらない。焦れば焦るほど士民の心は窮屈がって尚更工合(ぐあい)が悪い。しかしひとたび日新斎がいずるに及んで士気おおいに振るい、人民は初めて救われた。他領は別として、島津領だけは極楽浄土であると叫ばしめた。
 抑も(そもそも)日新斎は代々伊作郷を領土とする伊作家(島津家第一の分家)に生まれ、長じて島津相模守の家をも併せ嗣ぎ之を一家となし、後に長子貴久が島津家宗家十五代を嗣いだので自分のあとを断った人である。

※2)兵燹(へいせん) 戦のための火事

日新斎の母「常盤」
 ところでちょっとここで述べたいのは日新斎の母堂常盤のことである。この人が頗る(すこぶる)偉かった。真の母性愛を持った女丈夫であった。
 熟ら(※3つらつら)史を案ずるに………というと甚だ堅苦しい言葉を使うようだが実際昔でも現代でも手近な自分たちの周囲を見ても、賢母に非ずんば良兒は得られない。父親も立派なのに越したことはないがしかし母親が確乎(しっかり)していて初めて子供の完全なる成人を見られる。楠木正行だって母堂の久子がしっかりしていたればこそだが、あれが普通の母親だったら正成の遺言通りにはいかなかったに相違ない。また父親がグータラでも、母親がしっかりしている為に子供が立派に仕上がった例は枚挙に遑(いとま)がないし、反対に父親がいかにしっかりしていても母親がいけない為にあたら子供を台無しにしてしまった例も数え切れないほど沢山にある。

※3)熟ら(つらつら) 控えめなこと、慎重

 今、日新斎と母堂常盤のことを略述するとこうだ。妬匁(※4)を合わせて互いに睨みあった戦国時代の習いとはいえ、常盤は日新斎がまだ三歳の可愛い盛りに夫善久と生別死別の悲しみに合い、涙のうちに一粒種の日新斎を祖父久逸を頼りに育てていたが、日新斎が九歳の時、祖父久逸は戦死した。
 当の日新斎は悪戯盛りの頑是ない子供のことだから、さのみで無かったろうが、母堂常盤はいかに苦心したことだろう。周囲は皆城を窺い、領土を狙い、侵略欲に㷔え熾った(※5おこった)虎狼の群れの真中に置かれてさえあるに、世嗣ぎの君を一人前に………それも一方の大将としての一人前に育て上げねばならないその苦労は如何にボンヤリにでも想像出来ることと思われる。
 常盤は祖父久逸の存命中に、伊作郷の海蔵院へ預けて、和尚賴增に教育を一任した。これが日新斎七歳の時であった。
 ところがこの賴增和尚たるや、すこぶる付きの厳格な男。そこへ日新斎が遊びたい盛りの、そのうえの腕白者と来ているので四六時和尚のいうことばかり聞いてはいない。時々は脱線する。
 普通の和尚ならば、相手が領主の坊ちゃんだからというので、穏やかに世辞でもいうところなんだろうが、どうしてどうしてこの和尚中々の頑固じいさんだから、口先で叱るだけならまだしもグワーンと張り倒すこともあれば玄関から蹴落とすこともある。あるときは柱に縛り付けて箒(ほうき)で殴りつけた。後世この柱を日新柱と名付けて保存してあったが焼けたので作り直した。その他、あるときは薙刀を振り回して追っかけたこともあった程だからその教育ぶりは推して知るべしである。
 普通のおっ母さんなら、殊に今時流行の上流社会のママさん階級なら大変なことになるんだが、流石に日新斎の母堂常盤は、怒るどころか喜んで任せっきりで、一度の帰館すらせしめなかった。
 こうして厳重な教育を受けて十五歳まで修行し、漸(ようや)く帰館した日新斎を、更に新納忠澄という文武両道に秀でた家臣に頼んで仕込ませた。そして日常の起居動作座談に至るまでことごとく一国一城の主としての資格を念として教育した。それに言い忘れたが、この常盤という人は常に論語を愛読されたそうだ。この点は今時の小説仕込みや、婦人雑誌仕込みの末梢神経だけが発達したママさんとは大分出来具合が違う。殊に片言で、おまけに半チクな外語を使ったり、ヘボ文士の迎合的センチメンタルな亡国的弁句を諳んじて得意になって御座る女たちとはお気の毒ながら提灯と釣り鐘、月とスッポンよりも遙かに隔たりがある。
 こうした仕込みを受けつつ日新斎は病気もせずに伸びていった。
 頑丈な体躯、稜々たる気骨、親に対しては至高、臣下に対しては慈悲深く、しかも一騎打にも遅れは取らぬ武術、三軍を縦横に指揮する兵法、さては天理を解する学問、ものに動じぬ腹、こうした点の備わった我が子日新斎をしげしげと眺めて母常盤は幾度か嬉し涙を流し、その都度亡夫や岳父や、さては祖先の位牌に厚い々々御禮を述べたことだろう。

※4)妬匁(ねたば) 切れ味の悪い刀、転じて悪巧みの意
※5)熾る(おこる) 火勢が強くなること

 ここでちょと話が昔へ戻るが島津家では第十一代の主島津忠昌が、明国から都に帰った桂庵和尚、それが京師(おそらく京都の誤り)戦乱から避けて肥後の菊池氏にいたのを礼を厚くし辞を卑しうして招聘し宋学を講じてもらったことがある。その桂庵和尚は、日新斎が十七の時に死去した。そして日新斎は直接桂庵に師事する縁がなかったが、後に桂庵の出版した大学を読んだし、また桂庵の高弟舜田、及び舜田の高弟舜有に就いたし、また新納忠澄は桂庵の弟子であった。それに舜田や舜有に就く前に俊安という禅僧に就いて儒学を授けられ、また禅道にも参入した。
 日新斎の学問が以上のものであったのと、母堂常盤が常に論語を愛読された感化の為とであったが、非常に孔子をを崇拝し、孔子の聖蹟園を屏風にして常に座右に置いてあった。
 それかといって儒教のみに凝り固まっていたかというと決してそうではない、日新斎は晩年法衣をを纏っていたし、死後菩薩号を贈られて居るくらいだから如何に仏教に帰依していたか窺えるし、また敬神観念も非常に深かった。そしてこの神儒佛の三教を体得していた証拠には師僧俊安が日新斎の葬送に際し

富潤屋蓮經壽身   文經武經緯愜天真眞
心頭性火發明後   三教功名属一人

と頌(※6)を捧げているので充分に解せられる。

※6)頌(しょう) 中国文体の一種、先祖や故事、先人の功徳を称える詩や文

日新斎の人格とその政治的腕力量
 日新斎の人格、政治的腕力量についてかいつまんで今少し述べさせてもらいたい。
 彼は戦が終わると必ず死者を厚く葬ったが、しかもその霊を慰めるに決して敵味方の区別をせず、一視同仁、極めて懇ろであった。
 それから、確か天文八年の頃と思うが、市來城を攻めたときのことである。敵将は新納忠苗といって当時有名な豪傑で、これが必死になって采配を振るうので中々落ちない。さしずめ講談師だと此処で聴衆を七分三分ににらんで、張扇でで見台を叩き立てて大向こうを唸らせるところだ。
 さて日新斎は、さらばとばかり六十日間ほどはひた攻めに攻めて攻め抜いた。これにはさすがの敵も、兵糧も根気もも尽き果てて座して受く三軍四面の攻というありさま。
 時分はよしと日新斎は、大義名分を説いて降伏を勧告したので遂に忠苗も兜を脱いで終わった。
 ところで、日新斎の部下は之れを漸に処すと主張したが、彼は固く押し止めて曰く「彼は今日までその主の為に抵抗したのである。敵にとっては天晴れの忠臣であり、味方にとっては忠勇の亀鑑(※7きかん)とするに足る武士である」と礼を厚くして彼を労い、丁重な取り扱いで敵の陣地へ送り返し、充分に彼の顔を立ててやった。

※7) 亀鑑(きかん) 亀の甲羅を焼いて占った故事、行動の手本、模範

次章へと続く

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