[琵琶読本] 弾法における「崩れの手」は芸術上より見たる堕落に最も可能性がある

 くすぐったいお世辞以外、誰だって褒められて悪い気のする者はあるまい。褒められて喜ぶということは人間の持ち前の情であるが、これが弱みとも言える。そこで多くの人から沢山の拍手が起これば嬉しくなるのも否めないだろう。 Continue reading

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[琵琶読本] あしらい

「あしらい」とは、歌を一句うたうと一の弦と三の絃をトン、トンと打つ、あれを指していうのである。気をつけているとよく分かるが、一句歌うと必ずやる。 Continue reading

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水藤錦穣の芸風 その一

藤波と師匠水藤錦穣の稽古風景 (昭和31年頃)

水藤錦穣は、芸好きの父と長兄の影響を受け、幼少より琵琶の手ほどきを受けるのですが、その最初は近所の髪結いの娘さんから習う常磐津でした。錦琵琶は硬派な薩摩琵琶、流麗な錦心流琵琶のみならず広い芸能ジャンルから技法や表現法を取り入れ、それは内弟子になった藤波の教育方針にも色濃く反映されます。広く芸能を見聞きさせ、また習わせる、それはお茶であったりあるときは剣舞であったり、はたまた長唄や歌舞伎の一幕であったり多岐に渡ったそうです。

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[琵琶読本] 間口と奥行き

間口と奥行き
正宗は名刀の随一と称されてはいるが、切れ味を試した記録がない。けれども確かに切れると誰もが証明している。他の刀はほとんど記録されてある、そしてそれらの刀は横っ腹で切ったのは一つもない。みんな刃で斬っている。こんな事は分かりきった話であるが、これを他のものに移すと分からなくなるのが普通である。 Continue reading

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[琵琶読本] 妙寿流の弾法

昔は一人、その後は二人
薩摩琵琶が生まれた頃は、現在の如く琵琶の弾法は一人で演じた、決して「歌」と「弾法」とを分解して二人がかりで演じなかったが、代を重ねるにしたがって変化してきた。それは「琵琶は好きだが、歌うことは不得手だ」とか「声が悪くて歌えない」とかいうので歌の方はやらず、そのかわり弾く方は自信があるというので弾く方ばかり稽古する、と言う人や「弾くのは不得手だから歌をやる」というので歌ばかり稽古する人が出てきて遂に別々に分担するような具合になった。 Continue reading

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[琵琶読本] 弾法の用途

弾法の用途
 弾法は節によって用いるものか、文句によって用いるものか、またはなにか他に用途があるのか、ということを諸君と共に考えたい Continue reading

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開都五百年記念大東京祭 琵琶演奏会

開都500年記念大東京祭 (昭和31年)

昭和31年10月3日、太田道灌の江戸城築城500年を記念して東京都が大々的に行った催し、琵琶人も参加して演奏会が行われました。

前列左から3人目が原島旭粧さん、5人目が水藤錦穣先生、7人目が初代山元旭錦先生、右端が伊藤岳英師夫人、中段左から3人目が藤波、一人おいて5人目が笹川旭鳳先生、後列左端が伊藤(長四郎)岳英先生、5人目が芸の友社の鈴木社長、右から4人目が山元旭馬氏(山元旭錦先生の夫君)、その右側が福井琵琶店店主、右端が錦の若水桜松さん等々。

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[琵琶読本] 弾法の役目

弾法の役目
 前段にも述べたとおり、弾法は女房である。女房は奥方ともいうし、内室とも、内賓ともいうから、何でも奥の方の係違いない。
 ところが弾法の得意な人は、往々にして亭主役たる歌をして立場を失わしめるような弾き方をする。これは理屈抜きに歌を弾き殺すものである。 Continue reading

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[琵琶読本] 歌と弾法との関係

歌と弾法との関係
 歌と弾法とは、一口にいえば夫婦関係である。歌が夫、弾法が妻である。しかし夫婦関係といっても、世間にあるところの「女房がいないと不便だから女房を」とか「どうせ一人では具合が悪いから亭主を」というようなまるで事務員でも置くようなものとは私の言うのは趣が違う。もっと純な、本当の夫婦を指していうのである。 Continue reading

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作詞家 牛沢襄二

牛沢襄二はしぐれ曽我やうつぼ猿など、後に名曲と呼ばれる題材を錦琵琶に提供した作詞家です。本業は海運業。 Continue reading

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