びわ師錦穣 第八話 大震災

大正12年9月1日土曜日
この日学校はお休み、冨美は朝から家の二階で琵琶の稽古。母は午後から用事があるというので身支度をしていた、丸髷を結う母くら。
「お義母さん留守番をお願いします、お姉さんたちも頼んだわよ。お母さん仕事してくるわね」
母は祖母や子ども達に留守居を頼むと黒羽織をはおり玄関を出た。辻向こうの路地を曲がって見えなくなる母。
二階の廊下で遊んでいる2歳の弟、一階に祖母、家事をしていた姉二人、徳と千代。 Continue reading

Posted in びわ師錦穣

びわ師錦穣 第七話 未来予想図

それからしばらく中村家は平穏な日々が続いた。次兄が逓信省で働き始めたり、妹たちが家事を手伝えるようになったり、賑やかな一家団欒があふれた。長兄清一は禹水という雅号で始めた琵琶指南所が好評で。妹の倭水(冨美)と共同の看板を掲げ、入門希望者に琵琶の基礎を教えた。思えばこの頃が富美にとって一番幸せな時期だったかもしれない。 Continue reading

Posted in びわ師錦穣

作詞家 飯田胡春 -生粋の琵琶文学士-

飯田胡春(いいだこしゅん1883-1935)
飯田胡春は大正初期琵琶新聞主筆の傍ら次々と人気曲を発表した永田錦心時代の代表的作詞家です。本名飯田亮。

飯田胡春

明治16年山口県荻出身、熊本の名門第五高等学校に学び明治43年秋上京して琵琶新聞椎橋松亭氏と交渉、翌年春帝国大学国文学科に入学と同時に琵琶新聞社に下宿し本社社屋から通学、卒業論文「琵琶沿革論」を書いて文学士となる。すぐさま琵琶歌を発表、”龍の口”を傑作として斯界に知られ大正2年独立。以来琵琶新聞主筆として尽力すること数年。大正9年一旦離職して川越旧制中学で国文科主任に奉職する。学校では運動部長を務め野球部の恩人飯田先生と言わしめた。琵琶新作の求めには応じ次々作詞を発表、処女作玉藻の前から龍の口、船弁慶、伊豆の御難、勧進帳、安宅の関、吉野落、鞍馬山、錣引きなど列挙に余る。遺作は昭和9年発表の大楠公。
昭和10年5月自宅のある川越で病没、享年52。

琵琶新聞285-286号(昭和10年5-6月)、追悼記事より

Posted in その他コラム

[小説 びわ師錦穣] 第六話 野心家

水藤枝水、彼は米国生まれの帰国子女で琵琶は永田錦心の一番弟子榎本芝水門下。斯界に入るやいなや頭角を現し、自らの会”枝水会”を主催する傍ら宗家錦心の金庫番も務める錦心流一水会の中枢人物である。当時冨美の兄清一も榎本芝水師に教えを乞うていたので同門の大先輩でもある。しかしそれは表の顔で、従来の慣習にはまらないなにやらいかがわしいビジネスにも手を染めているらしいという噂まである人物である。とりあえず申し出を断ったのは正解であろう。
水藤はその後も度々足繁く中村家を訪れては件の申し出をしていたが、その都度母のくらが対応し断っていた。人の良い父に比べ母の方がよほど気丈である。冨美は母くらにしっかり守られていた。 Continue reading

Posted in びわ師錦穣

[小説 びわ師錦穣] 第四話 奥伝審査

大正10年、姉たちに混じって琵琶に家事手伝いにいそしむ冨美にもさてそろそろ奥伝審査を受けさせようということになった。本格の師匠方に芸を披露するのはこれが初めてである。 Continue reading

Posted in びわ師錦穣

[小説 びわ師錦穣] 第五話 応援団

幼い冨美の演ずる琵琶は、もとより本格派の弾手とは比べるべくもなく、歌が弾法がどうこうよりその可愛さでの好評だった。しかし気を良くした父は勤めから帰ると綿密な日割り表に曲目を書き入れ、そのおさらいが済むまでは冨美が遊びに出ることを許さなかった。当時土日は近所でなにがしか会があり、前座にと頼まれては父は冨美を連れ出し、その時ばかりは稽古は休みになった。冨美は琵琶会のみならず、蒙古王と謳われた代議士、佐々木安五郎氏が本所寿座で開いた会、はては向島の料亭大広間等にと呼ばれては琵琶を添えさせた。行くと日に四、五曲は歌わされたが帰りに必ず父は「今日は帰りに何を食べる?」と褒美を冨美に選ばせ、冨美もそれが楽しみだった。 Continue reading

Posted in びわ師錦穣

[小説 びわ師錦穣] 第三話 芸能志願

中村の父は勤め人ながら芸事好きで、講談、新内、浪曲、端唄、暇さえあれば子供たちを連れて聞きに行ったし観に行った。その影響もあって子供達も謡い事を好み、中村家はまこと賑やかな家であった。長男の清一は義務教育を終えると商業科高校に進み、野球に励む傍ら新内や清元も嗜んでいたが、ある時たまたま学校の友人と聴きに行った琵琶演奏会で錦心流の村上渓水師演ずる”捨児”に深く感動し、その場で入門を決めてきた。
同じ頃、父は冨美にも何か芸事をと、近所の理髪師の妹に常磐津を習いに通わせた。 母は女に芸事などとんでもないと冨美の習い事には反対だったが、父は意に介さず、少ない小遣いを削ってでも冨美に習い事をさせた。 Continue reading

Posted in びわ師錦穣

作詞家 石川冨士雄

石川冨士雄 (いしかわふじお 1898-1959)
石川冨士雄は元国学院大学教授、戦前戦後の錦琵琶等に十数曲の作を遺し、琵琶界に大きく貢献した斯界の大恩人です。

石川富士雄

千葉県成田市出身、国学院大学国文学科にて教鞭を揮い、その後警視庁嘱託に奉じる。琵琶界との縁は富山房編集部に勤務していた昭和8年頃、地元千葉の成田中学(現成田高等学校附属中学)での出演を水藤錦穣に依頼したのが最初。逆に錦琵琶側が石川氏に作詞をお願いするようになり、”後鳥羽の院”や”淀君”など文学的傾向の強い作を発表していたが錦琵琶水藤枝水の「もっと活劇的な曲がほしい」との要望で”新撰組”や”井伊大老”(共に昭和16年発表)等が作られ、特に新撰組は大変な人気作となり、広く琵琶人に愛される曲となった。琵琶作詞以外のジャンルでは仏教関連の著作や少年向け歴史書等を上梓している。戦後大阪府下山崎へ転居。

昭和34年11月、第1回琵琶名曲鑑賞会参加のため上京した際、錦琵琶都派の都錦穂邸で宿泊中に発作をおこし入院、一時は回復するも翌12月8日、腎不全の為都内の転院先で没する。享年61歳。

藝の友昭和35年1月号訃報記事、同2月号追悼記事
錦琵琶名曲選、5巻井伊大老、同7巻新撰組の水藤錦穣解説ほか

Posted in その他コラム

松野紫雲 -琵琶界を内側から支えた市井の詞人-

松野紫雲 (まつのしうん 1895-1981) は本業食料品店経営の傍ら夫人の愛する現代琵琶楽の為に作詞を提供した作詞家、本名=三浦忠。夫人は錦心流琵琶演奏家の三浦蓮水。

松野紫雲

宮城県出身、学校卒業後上京し、初め横浜の輸入食料品店大村屋に就職、業務で3年余り中国に滞在ののち帰国するも大正13年の関東大震災で店が焼失、銀座亀屋に勤めを変え大阪の第一号店支店長として関西移住。昭和5年兵庫県西宮市夙川駅前に食料品店”つるや”を開く。以後同店経営を通して地元夙川の発展に尽くす。
琵琶曲作詞は昭和33年妻の三浦蓮水が第一回琵琶演奏会を大阪三越劇場で開催した際、来演した錦琵琶宗家水藤錦穣の名演に心動かされ、妻蓮水の勧めもあり琵琶曲作詞を試みるようになる。以後筆名を松野紫雲と号し、大小様々な作詞を提供するに到る。代表曲は楊貴妃、屋島懐古、琵琶塚、弁財天等、総じて18に及ぶ。
昭和56年2月26日、腎不全の為に永眠、享年86。

ペンネーム”松野紫雲”は経営するつるやの銘菓「紫雲」にちなむ。

現代琵琶人大鑑 昭和36年京弦社
松野紫雲作詞集 昭和58年刊

 

Posted in その他コラム

6月1日 調布たづくり琵琶演奏会

表題の通り調布たづくり内のむらさきホールでの演奏会に出演いたします。私は盲目景清を演奏いたします。お近くの方是非おいで下さい。

Posted in 演奏会ご案内