功焦る武将盛綱の告白 盛綱先陣

源平藤戸の戦いで戦功をを挙げた源氏の武将佐々木盛綱。そのきっかけは地元の海士から聞き出した浅瀬の存在、盛綱はその海士を殺して勲を独り占めする。翌年、藤戸寺での慰霊祭に現れた一人の嫗、戦に巻き込まれ海士の息子を失ったという媼に盛綱は一部始終を語り聞かせ涙ながらに媼に詫びるのだった。あの秀吉も好んだという謡曲藤戸。本作は公開時は原題(謡曲)と同じ”藤戸”でしたがその後表題の「盛綱先陣」に改題されました。

藤戸寺

初演は昭和32年5月1日日本橋三越劇場、奇しくも母藤波が五十嵐桜華から”藤波”桜華に改名披露した演奏会です。昭和32年の初頭に作曲中と記録にありますから創作時期は錦の”耳なし芳一”とほぼ同時期です。しかし難産だった”芳一”よりはだいぶ早く公開されました。田中濤外作、さらっと話をまとめるセンスの良さはここでも冴え渡っていますね。潤色補作の水藤安久とは錦穣の養父水藤枝水の甥であります。文才があり錦琵琶に限らず邦楽関係の作詞作文を度々手伝っています。

盛綱乗り出し岩跡

恥ずかしながら私はレコードで錦穣先生の本作を聞くまで藤戸のお話を知りませんでしたので、琵琶歌”盛綱先陣”の顛末に大変衝撃を受けました。回想という形で盛綱が媼に語り聞かす事の起こり、表現としての幽玄さや戦シーン。そして悲しみに泣き崩れる媼の慟哭。過ぎし日の栄枯盛衰、哀憐の扱うのに琵琶ほど適した楽器はないと改めて思います。
お話の舞台、佐々木盛綱が慰霊祭を行ったとされる藤戸寺は、岡山県倉敷市の藤戸町に今も現存しています。干拓が進み、今は海辺ではありませんが盛綱が乗り入れたという乗り出し岩跡、馬を乗り入れる盛綱の勇姿を表した騎馬像(本サイトトップ)盛綱橋など、エピソードを今に遺す品もこの地にあります。盛綱が浅瀬の目印にしたという藤戸岩は戦国時代信長により天下人の証として京に運ばれ今は京都にあるそうです。

Posted in 令和琵琶歌の研究 | Leave a comment

コメントを残す